アウトデラックス

6/25 22:00〜のアウトデラックス人事異動SPを見ました

塚ちゃんはコンサートとプライベートの合わせて30時間を密着されておりオンエアは15分とかそのくらい?だったのでノーカットの映像売ってくださいと思った


・10:30 花園神社前
祈るっていうのは敬虔なこと 塚ちゃんはレジェンドツアー名古屋のとき熱田神宮でもいちばんお祈りが長かった

・11:00 オッシュマンズ新宿店
サプリメント超買う ROLA(雑誌)の運動特集で最近水泳教室に通い始めたと言っていたのであれは本当なんだなとなる 塚ちゃんが水に弱いという事実なんかかわいいしおもしろくていいんだけど苦手克服を応援したいです

・11:30 タワーレコード新宿店
女の子のアイドルコーナー ノリノリで視聴しながらアイドル雑誌を読む塚ちゃん ひとりでニマニマしててそれわたしたちがやるやつ…と思った ジャニーズコーナーにも行く

・12:30 ビッグエコー新宿東口店
自分の曲を歌う塚ちゃん ここでまた脱ぎ、恐竜みたいな鳴き声上げてた ウア〜〜〜〜〜〜〜

・13:30 信州屋新宿南口店
おそばとカツ丼食べてた

・14:00 Miso Noodle Spot角栄
またごはん 濃厚味噌ラーメンとカレー味噌ラーメンどっちも食べてた
そのあとソフトクリームも食べてた 一気に4食とおやつってなに

・新宿東南口にてA.B.C-Zのファン(河合担)に遭遇
(何してるんですか?)
「今日休みで、僕買い物してたんです」
というこの会話 塚ちゃんの普段の姿を演じていたという意識があった(もしくは無意識にそれをやっている)のワ〜〜〜!と思った 塚ちゃんはほんとうにアイドルだなって カメラがある時点で「今日は休み」ではないんだけど 番組としては、ファンと遭遇しても塚ちゃんはいつもこうやってますよという場面を撮りたいので「アウトデラックスで密着してもらってるんです」と言わずに「今日は休み」と難なく言ってのけた塚ちゃん超プロだな…
ここで勝手に思ったのが わたしは地方住みなのでよく夜行バスを利用するのですが夜行バスはだいたい新宿か東京で発着しており、ここらへんの風景はかなり馴染みのあるものでわたしにも分かる土地だった そこでもし塚ちゃんがそこまで考えていたのだとしたら A.B.C-Zのコンサートなどイベントに来た子たちも分かる場所をロケ地に選んだのだとしたら またその子らが空き時間に「聖地巡り」的なことをできるようにとそこまで考えて新宿を選んだのだとしたらマジでこわいレベルですごいなと思った いや絶対違うと思うけど こういうこと考えて偶然に喜んだり深読みできまくったりするのがおたくの楽しいところ

・15:30 トレーニングジム
ゴールドジムへ トレーナーさんと一対一でトレーニングしており主に映ったのは筋トレ 重りを持って腹筋をする際「ダメですダメです!」と言っていてそんなMAXでやってんのカッコいいなと思った このときロッカーの鍵を右手に付けてたのだけど塚ちゃんはだいたい腕時計も右 わたしもまったくこれは同じなのでこの精神性に首肯できすぎるし好きになる人が右手に腕時計をつける人な確率が高め…

・ここで塚ちゃんぽさ爆発してたんですが「僕卓球すごい好き」という多分ファンが聞いたことない情報を入れてきた塚ちゃん 以下塚ちゃんが喋ってたことです
「次あのー 僕今日卓球スゴイしたいんです はい だから卓球場 行きたいと思います」
(卓球好きなんですか?)
「卓球やるのスゴイ好きです 僕本当に卓球やるのが好きで マネージャーさんにも誘ったことあるし友達にも誘うんですけど なかなか卓球やろうねって言っていいよってノリノリで言ってくれる人がいないんですよね周りに はい」
卓球ぜんぜんできてなくてなんかかわいかった フルスイング やっぱり塚ちゃん超太ももで動いてる感じがする すごい腰痛めそうな前傾姿勢で力いっぱいラケットを振っており力を抜くことを知らない人間が卓球やるとまああなるよねという感じだった
「なんだろう こんなはずじゃなかったです僕 なんかもっと カッコいい塚ちゃんを見せられるかなと思ったんですけど 見せれなかった〜」とのこと

・19:00 鍋料理屋
あくとり代官 鍋之進 というごはん屋さんだそう ビール飲んでた
ここで親に電話することになるのですが親からのアウトデラックスの反応は僕なにも聞いてないですとのことだったので塚ちゃんはあんまり普段から進んで親と連絡取らないんだなあと思いなんだかグッときました
あとこの電話してる端末が塚ちゃんのiPhoneだとすれば長らく普段使いしていたっぽい黄色いガラケーは何だったのか とか たまむすび(ラジオ)でニッキさんがiPhoneケースのはなしをしてくれたときに塚ちゃんiPhone失くして見つからないままだと言ってていやいやFind iPhoneiPhoneをFindしろよ!個人情報!ということを思ったことも思い出しました 以下塚ちゃんママとのお電話

「もしもし?」
(もしもし)
「今電話大丈夫?」
(うん家だよ)
「なんか最近 あのアウトデラックスとか見てる?」
(見てるよ)
「あ 見てる?三週 こう 出させてもらったんだけど」
(うん)
「ぜんぶ?」
(うん 面白かった 見てるよ 全部)
「あー見てる?」
(うん)
「あー そうなんだ」
(なんでなんで?うーんまあ1回出て)
「うん」
(もう1回出させてもらえるってことは評価が良かったんだってみんな言ってるから)
「え みんなって?」
(会社の人も友達もみんな応援してるよ)
「あ そうなんだ」
(ちょっと話はアレだったけど)
〜カット〜
「あのさ聞きたかったんだけど」
(うん)
「なんか さあ まあその まあ文字面ではさアウトデラックスで アウト っていうの言ってくれて」
(うん)
「でさお母さんとかお父さんはさあ 息子がアウトになっちゃうじゃん アウトのお母さんお父さんになっちゃうじゃん」
(うん)
「だからどうなのかなあっていうのを聞きたくて」
(うーん)
「自分はいんだけど」
(一番最初はね)
「うん 一番最初?」
(はっきり言って一番最初にアウトに出るってわかったときは)
「うん」
(お母さんアウト見てたから たまに)
「うんうんテレビ見るもんねよく」
(見てた うん)
「うーん」
(えって思ったの)
「うん」
(出て来る人たちがえーっていう人が多かったから)
「うーん」
(だけどよく考えたらね)
〜カット〜
(1つでも2つでもテレビに多く出させてもらえるっていう アウトだろうが何だろうが)
「んー」
(それは感謝だねってみんなに)
「んー」
(うーん出れるってことは仕事があるってことだから)
「んー」
(出させてもらえるってことはね どんな仕事 アウトでも)
「んー」
(だから今は別に全然 アウトでレギュラーになろうが)
「うん」
(どんな仕事だろうが)
「うーん」ここで笑顔になる
(一般社会に迷惑かけない仕事をしてればどんな仕事でもオッケー)
「ん〜〜〜」
(だよ)
「うん」

すごい窺うような声色だった 人のはなしを聞いてる塚ちゃんってすごい聞いてる感じがする うんうんって 相手の発言をやわらかく導くような オウム返しって言ったら変だけど 相手の言ったことを繰り返して肯定してあげながらお話しを聴いていて静かなやさしさがあった
受話器を耳に当てて喋り出した声のトーンと話し方、居心地悪そうに遠慮したり恥ずかしがったり躊躇ったりして言い淀んでいつもの塚ちゃんの勢いを削がれた感じで 見たことない塚ちゃんだった よくわからないけどなんだかこどもみたいだった なにかをはじめるときとか親に改まって話をするときとかのこと思い出した きちんとひとつひとつ説明するときの 怒られないかな?とかわかってくれるかな?とかそういうきもち 親にきちんと対峙するときのあの感じ 憚ってた ほんとに母の前の息子だったな

アウトデラックス見てるよと母に言われたとき番組スタッフに(見てるって!)という感じで目配せしながらも言ったことば「へえーそうなんだ」 に含まれた(べつに僕はなにも気にしてません べつに喜んだり笑ったりしてませんから)という強がり/照れ隠しみたいなニュアンス すごい胸が静かに掻き乱された感じだった なんだろう 母性ってこれか…みたいなきもち

みんなって?って聞いたとき うわ評判気にしてる!誰が良かったって言ってくれてるのか気にしてる!と思ってかわいかった

アウトでもいいんだ〜って認めてもらったときの笑顔もすごいかわいかった やっぱ心配だったのかな

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座右の銘とか好きなことばとかそういう目標を持っていてもそれがその人自身であるとはまったく限らない、むしろそれは理想であって自分に欠落しているところが指標になるのだと思う(例えば時間に厳しくきっちりしているひと 本来休みはダラダラしてしまうような性質、だから分刻みでスケジュールを組んでしまうとか)のだけど塚ちゃんはたったひとつ、お母さんに言われた「他の人に迷惑をかけない」をすんなりと体現できているのすごいなと思った これだけは守る、ということを守って自由に行動を選択して実行することの難しさなんて考えてみたら普通はなかなかできない それをあたりまえに体現できるひとはもともと習慣になって目標を立てて守ることなんて考えたこともないか、逆に、なかなかできないから目標を立てて克服しようとするかどちらかなのに 守っていることを自覚して守り続ける、貫く、というのはほんとうにすごいことだなと改めて感じました

アウトデラックスのスタジオではもう完全にジャニーズアイドルというよりは芸人に寄っていってるくらいだけど塚ちゃんは昔イジられキャラが嫌で宮っちに相談したことがあるって言ってたりとか 王子様目指してツンとして(いやでもその頃の映像見るとかなり普通にカッコいいんだけど)たり、でも塚ちゃんの愛嬌のあるかわいい笑顔はぜんぜん今と変わらなくて、塚ちゃんは変わったのかな 変わってないのかな いや塚ちゃんはずっと塚ちゃんなんだと思うけど そういうのもぜんぜんわからないしこれからもずっと知らないと思う でもときどきすごく心のざわざわするところがあって、あの真っ直ぐすぎるくらいの純粋さとか、空気の読めなさとか、わかるし、他人にいろいろ言われるの不本意なことばっかりだろうし、でもそういうことぜんぶもういろいろ消化したんだろうなって イジられなくなったら終わりだよって濱ちゃんに言ってたようだしもう潔く振り切ってるのか周りの環境が塚ちゃんに合うようになってきたのかわからないけど塚ちゃんはこっちが持ってしまう心配のもとになる証拠をぜんぜん提出してくれない 隠してるんじゃなくてそういう暗がりを見せない、見えないようになってる人なんだと思いたい 過去のDVDから様々見ててもやっぱり塚ちゃんが素で天才なのか狡賢い計画犯なのかもぜんぜん分からなくて信じたり疑ったりわからなくなったりの繰り返しだったけど、アウトデラックス密着を見て案外塚ちゃんのことそのまま信用していいんじゃないかと思えた、なのにトドメの息子としての素(のような一面)を見せられてしまってまたわからなくなり気味で、これは塚ちゃんだなあと思ったりぜんぜん違うじゃんと思ったり、やっぱりまたもう一段階塚ちゃんが謎になりました なんか終始いろいろと共感できてしまったりわかるような気がしてしまったりするキモ痛重いヲタでごめんなさいって感じ…これだけいろいろ思うけど塚ちゃんの明るさをすごくどうしようもなく信じてます、ハイ!全編において語弊がすごくてごめんなさい!

アウトデラックスレギュラー決定おめでとう!塚ちゃんのアウトはいいアウトだから存分に暴れてほしいです 毎週木曜がたのしみです

恋する❤︎ヴァンパイア

重さ軽さ長さ短さに関係なく現場というのかわからないけどイベントの感想はこっちにまとめておこうと思ったのでこっちに書く 消費者の中の消費者らしいダサいメモです
・地方にも順次上映されてきた『恋する❤︎ヴァンパイア』を観たわけですが戸塚祥太の存在感がまーあよかった おもしろかった ヌッと柱から覗いた野暮ったい姿とか、独特な愛らしいコミカルさ、まどろむようなゆったりしたやさしさ、なんかやっぱ目がこわいなとか、すごくいいなって思う 単純に撮影楽しかったろうな ギターや歌からチャンバラで銀幕デビューっていう あと台湾とか横浜も似合う キイラのパープルアイを見てから家帰って本を開く所作が奇麗だった 地を這うような声もよかった
・ベッドシーン、と言っていいかどうかわからないくらいのベッドシーンがあるんだけど じっと眠っている戸塚祥太の頭がアップになっていて(フォーカスは桐谷美玲戸塚祥太の髪の毛や頭蓋骨が揺れているわけではなくリズムで 鼓動が規則正しく見えていたのがよかった 熱いはずの他人の肌の温度とか固いはずのスクリーンと客席の境界とか そこがこの一瞬だけ温度が均衡して卵殻膜みたいに薄く柔らかくなって羊水に溶かされるようだった ひとっていうのはこういうふうにとくとく眠る 
戸塚祥太の銀幕デビューは映画の効果がある映画っぽい映画がよかったなという悔しさ それぞれの媒体のよさがある 映画は言葉のなさ 感情の動きを目で見られるものだし描いてないものを観たいわけで、映画のジャンルとかよくわからないけどこれは映画である必要はない気がする なんだろう 漫画がいいかな それか連続のドラマでやったらいいのではという感じ 邦画の悪い部分が出てる感じある 戸塚祥太の映画ならストーリーはなんにも起きなくていい ただただ映像やコンテクストがうつくしいものがいい 詩的な静謐ばかりを息を殺してぼうっと眺めていたい
・ギターピックのネックレスと星のブレスレット売れば売れたと思う 普段も星を付けていた戸塚祥太のきもち
戸塚祥太とても足速い
戸塚祥太とても腰の位置高い
・哲の部屋とか秘密基地に共感覚える
・衣装と髪型が微妙(もっとかっこいい)
・パン屋、あ、阿部和重 と思った (阿部和重はミュージシャンじゃないけど)(阿部和重×戸塚祥太ダヴィンチはまだ読んでないけどふたりはいろんな点で繋がっているという素敵な個人的勘違いがわたしのなかにある)
・節々に戸塚祥太の片鱗というのを見る 芝居や動きへの無意識感のなさ 良い
・権威を持った大人がそれぞれやりたいことをやっている それぞれが欲を持って他人にやらせているなと思った 調和が変(ダサい戸塚祥太見たいだけだろ&戸塚祥太におっぱい言わせたいだけだろ/戸塚祥太がもしもバンドマンだったら〜みたいなあのMCの感じ 女に人気ありそうみたいな、運命のひとに出会ったことある?→テツく〜ん♡(あっはい) 会ったことない運命のひとに毎晩夢に出てくる、おかしいとおもう?俺も(笑)とかハ〜イ!っていう/読モ?はヤスタカに手掛けさして売り出しまくればいいってもんじゃねえ /商業映画ではなさそうなのに桐谷美玲から柄本明など出演者すごすぎる 内容以外がよくわからないというレア映画だった)
などなど
この映画は映画ファンというよりもA.B.C-Zのファン、桐谷美玲のファン、田辺誠一のファンあたりが多く観るんだろうなと思うので別に映画の中身についての文句はあってもいいんだろうなという感じ わたしはダサいので ストーリーは普通におもしろかったし映画楽しかった 畢竟、なんというか ジャニーズには無理なことなんだけど戸塚祥太がバカに見つからなければいいなと思うばかりでした おわり

広島に原爆を落とす日




池袋は迷う。去年、台風が夏を拐って行った日を思い出しながら赤く長く伸びる線を捜して歩いていた。わたしの池袋はだいたい宮沢章夫の記憶。池袋は演劇を観る街・迷う街。と、いうことで、つかこうへい演劇作品『広島に原爆を落とす日』を観たわけです。

舞台について、脚本やら演出やら、そこがなんかアレだなというのはまあよくあることで、いろいろ思うところはありますがそこはまあどうでもよく、とにかくただただ目の前の現象だけを見ていました。錦織一清に「Don't think,feel!」と言われたので、ブルースリーにのっとってそこの精神からある一点を見ない、感じてすらもいないというその我が闘争2時間続けていました。この行為の不可能性こそがこの舞台のようだ、と思い、完全なるフィクションとして享受し、フィクションの中をリアリティを持って生きるように書くことでこれも上演されるものというかたちをとる。ここに述べるのは本当にたんなる感想で、なんにも深く考えてない、相対化もせず人のことを勝手に考えるという性質のものですので批評とかでは全くなく(批評とかできないし)、感想として考えたことを書きます。ハードの部分はまったく書かずにソフトの部分を書きます。

小説も読んだけどまったく異質でありそもそも設定もかなり違うので別個に連ねました 

広島に原爆を落とす日について - 漸近 http://nezile.hatenablog.com/entry/2015/04/17/033811




まず言っておきたいのは戸塚祥太はディープ山崎に似合ってたな、よかったな、ということで狂気のための舞台にはぴったりだなと思った。つかこうへい以外も観たい、もっともっと観たい。ジャニーズ事務所全く関係ないやつ、きちんとした外部の舞台が観たい。

ディープ山崎は癇癪っぽいし卑怯で神経質で高慢ちきな男だけど才能のある美しい男で、心の深いところで愛される男だった。優等生がグレる、というよくあるコンプレックスのようなものがあって、ほんとうのところ、自分のことを信じられない。圧倒的で絶対的な、よくわからないものである愛、その愛のせいにでもしないと覚悟を決められない。
『愛されたかった 愛されたかった 愛されたかった』
『死にたくない 死にたくない 死にたくない』
『生きたかった 生きたかった 生きたかった』
そう絶叫することや、あなたを愛していること、すべての本音も、戦争のせいにしないと言えない。だけど本来人間とはそういうもので、卑怯で、弱い。そのような性質を恥ずかしげもなく舞台にぶちまける山崎はいかにも人間くさい。過剰さがきちんと過剰で、言葉は膨大な意味を含んでいるから裏を読もうとしないとわからない。
山崎は、なにかを理由にして自分を責任から逃さないと進まない、そういう弱い男だった。同時に、愛する者を愛し抜き、自分の使命を全うできる強い男だった。
さらに山崎は白系ロシアの混血であるというコンプレックスを持っている。
いくら日本を愛して、日本を勝利へ導く頭脳があって、人格があっても、「混血だから」というその言葉だけで今までしてきたことが全て無駄になる。頭脳とか美貌とかいろんな才を持ち合わせすぎて疎まれ、それは混血という揚げ足の取られ方をする。その人間のなかにどんなものが渦巻いているかも知らずに、それだけの理由で切り捨てられる。そういう不条理な環境のやりきれなさとか行き場のないコンプレックスが、戦争というでかいテーマに乗って爆発する。 山崎の辿る運命は、真実を唱える人間が消し去られることと似ているなと思う。
ほんとうの愛国心とはなんなのか。日本を勝利へ導き世界を支配することか。日本を敗北へ導き植民地化することで新しく日本をつくりなおすことか。ほんとうに愛するということは。愛するひとのためにいのちを捧げられるということなのか。戦争とはなんなのか。
戦争にも勝ち方がある。世界がひとつの社会となって予定調和の空気を動かしていたことがわかる。戦争は愚かなことだ。御国のために死んでいったからではなく、愚かな争いの犠牲になったいのちの怒りを鎮魂するために手を合わせる。誰もが誰かのことを思って死んでいった。慰安婦と兵士のあいだにも、温度のある恋心があったこと。勝つための犠牲となって死んでいきたかったこと。誰もが死にたくなかったということ。だけど一旦終わらせないと始まらないことがある。守れないものがある。
原爆はこの世に生まれてしまった。だからいつかは、どこかに落とされなければならなかった。人類は1度、その脅威を目にしなくては反省しなかったであろうから。でないとどんどん強力な武器がつくられ世界は終焉する。なぜならその武器は最も優れたものだから。天才は時に危険でもある。その最大に強力な武器を使えるのは最高級に強力な人間でなくてはならない。凡人には到底扱えない。正気で大量の人間を殺戮できるのは目的が愛のためだからである。逆に考えてみれば原爆を落とすということは、そんな狂気みたいな正気さを持った男でも愛という理由がなくてはならないようなことだった。そして同時に、愛とは、あらゆるものに打ち勝つ圧倒的で絶対的なものだということを思う。
原爆というものが完成してしまったときから投下されることは運命として決定付けられていた。原爆を投下できると判断された唯一の男であるディープ山崎もまた、最も優れた頭脳を持ち、生まれながらにして、最も優れた兵器と死を共にする運命を決定付けられていた。彼は愛するひとの胸に還るように原爆を投下したのだろう。山崎は自分を投下したのだ。終わらないと始まらなかった。原爆は未来を背負っていた。また同じくディープ山崎も、終わることに始まりの光を感じていた。生と死を同時に背負うこと、その不可能性こそが闘争のはじまりである。不可能性を生み出す母も、もちろん愛という、得体の知れないものからはじまる。
イデオロギーとかばかばかしいけど、どんなに愛していても添い遂げられるとは限らないし世界はどうしてもうまくいかない。つかこうへいはひとりが幸せになれば世界のどこかでひとりが不幸せになる、それが民主主義だと言ってたけどそんなのは民主主義じゃなくても同じことで、共産主義とかなにもかもが動かなくなって静かに平和になることのために争いをよしとするのは間違ってる。そもそもあなたも誰かを愛しているでしょう。誰かに愛されているでしょう。どんなに心が死んでても、なにかをうつくしいと思うでしょう。そういうふうに、ことばになりにくいことを、やわらかく手のひらで撫でるように思い出していかないと、わたしたちは平気でやさしい心を忘れてしまう。戦争が悪いとかぜんぜん言いたくない。ディープ山崎のことをただただ見ていたあの気持ちをずっと大切に抱いている。
白く熱い閃光に包まれるとき、せめてそれを来たる希望だとどうか誤解してほしい。報われなかった愛のために死ぬ。永訣する男の身に、ひかる雨はばらばらと音を立てながら、黒く地面にふりかかる。



広島に原爆を落とす日について




これから話すことはインターネットじゃしてはいけないはなし だからきちんと書かないけど『広島に原爆を落とす日』という作品に出会って本を読んだり舞台を観たり諸々タイミングが合っていろんなことを考えたのでズラズラ書く 舞台のことはまた別に書く




・ 『広島に原爆を落とす日』のことを考えるときよく『アメリカの夜』のことを考えた「何者でもない自分」という存在への耐えられなさの事である。また『サーチエンジン・システムクラッシュ』とともに池袋のことを思った「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」


戦争の記念碑/正義と加虐性/愛の強さと弱さ/つかこうへいの演劇


・戦後70年ということでテレビとかでいろんな特集が組まれててお国のために死んでいって立派だったね という捉え方をするひといると思うけど戦後70年というのを盾にして愛国主義者が立ち上がるようでは絶対いけない 戦争に参加した自国も含めて世界を自省して「あれはよくないことだった」ときちんと痛みを痛がることをしなくてはいけない だれもヒーローじゃない かといってだれも死刑囚じゃない 英雄でも戦犯でもなければ、だとしたら、何が残ったんだろう 絶対に歴史の浄化を行うな 日本はいま痛みを完全に忘れている 
愛とか多幸感が表面張力みたいに溢れ出す前の静かな緊張のなかにあるとき 事象の善悪の判断はどうでもよくなって それだけがじぶんのなかで「正義」に変わる その信じて疑わないものを貫こうとしたとき、正義は暴走する 正義と正義がぶつかりあって戦争は起きる じぶんのことを善良だと思いこんでいる人たちに限って暴徒化する じぶんの意見こそ絶対に正しいと信じこんでいる人たちの口調はとても荒い
いまだに右派も左派も正義でも悪でもないってことはそういうことだ 様々なレールがあってそれを分かり合って受け入れてうまくやっていかないと世界は簡単に傾く
愛するということはたぶん もうひとりを攻撃することではなくて たったひとりを守ることをいうんだと思う それぞれに大切な居場所があって、あなたのことも大切で、どちらをとればいいのかわからない「いつかこうへい」という公平は 境界をなくすことではなくて 境界線はそのままに互いの差異をわかり合って共存するということなんだと思う 正義は乱立している 故に争わない という選択をとること
だから演劇という虚構において(あくまでもフィクションとして)シュミレーションするとき、ディープ山崎は日本人でもロシア人でもない、居場所のない人間として描かれたのかもしれない その男に愛する女ができて、女が母港となった 大切な居場所と大切なあなたがイコールになったとき、何もかもが手に入った男がどのような気を帯びるか 均衡する対象がなくなったとき、天秤は急激に一方へ傾く 上乗せされた多幸感を携えて、自らの聖域を確保した、怖いもの無しの男は一体 彼のその狂気ともいえる正気さはきっとそういうところから発生している 彼もまた世界で 世界のスケールが脳内でかなり伸縮してる 広島のことを考えているときそういうイメージをよく持った 
日本人は、ドイツ人は、アメリカ人は、祖国が母国であり、彼らは祖国を守らねばならなかった 祖国の誇りのために戦い、祖国の勝利のために身を挺した 恨一郎には祖国がない 祖国を愛さず、日本を愛し、祖国の人に愛されず、すべてを捨てて、日本の勝利のことだけを考えた
恨一郎は日本人である百合子を愛した 彼には百合子が祖国だった 彼の祖国は誰のものでもない、争われず、競争されない国家だった そこにはただ美しさだけが存在した 居場所のない彼にとっての祖国は女だった 女だったからこそ、恨一郎は愛国心やプライドなしにまっすぐな眼差しで国を、世界を見ていた
世界中の祖国は揺らいでいた しかし恨一郎はどれだけ重大な任務を背負おうと、どれだけリスクの高い戦略を組もうと、どれだけ憎まれようと、嫌われようと、狂うことがなかった それは彼の祖国が決して揺らぐことのないものだったからだ 百合子が生きてさえすれば、彼は正気でいられた 彼は決して結ばれることのない契りを信じることで保たれていた それは遠く、大きな、祈りのようだった

・死ね!殺してやる!という絶叫であなたを抱くのか/好きだ!愛してる!という絶叫であなたを刺すのか 属性や境界、そういう目に見えない線は絶対に無くならない 原因もよくわからないまま、人を滅ぼす それを救えるのは愛だけだ 愛はいちばん恐ろしい武器だ
愛は無条件だから危険 手放しだからバランスがとれない それなのに愛でしか戦争は終わらせられない
自己犠牲が愛を報う そのおぞましいほどの愛が人間を殺すことに、なんの意味があるのか 添い遂げることもできたはずなのに、世界でいちばん愛するあなたの真上に、誰もできなかった原爆を落とすということ そしてあなたはそのことを当然のようにして待っていてくれたこと 世界が滅ばないための犠牲

・そのまま飲み込めば骨が刺さるが、逆説的で反語的、それが演劇的であるということだ 真実は常に隠蔽される

・いくら富や名誉があったって、いくら立派な人になったって、なにかあれば結局「お前はよそ者だから」それだけですべてが崩れる だから信じていない 何も失うものはない 怖いものなんてない つかこうへいはいくら日本人が善人だろうと、世話になろうと、疎外感のようなものを感じていたのだと思う
これまたつかこうへいの演劇作品 『出発』で一郎の嫁明子がキャリーケースを引いて家を出ようとしている 明子が、岡山家はみんな優しくていい人たちなんだけどやっぱり私お母さんになれそうにないと言って泣く そこで一郎は俺はスーパーマンだったんだって笑わせようとする 笑え!笑えって、笑っていれば大抵の事は乗り越えられる
な?飛べるんだよ!俺飛んだことあるんだから、あれおかしいな、って飛ぼうとする 受け止めてやるから、お前の故郷も、お前が生きて来た歴史も、お前が何に痛んでいたのかも受け止めてやるからさらけ出せって。笑ってればいいわけよ、その笑顔を家族のきずなって言うわけ。それでも明子は笑わない
その優しさが怖かったの 好きになるほど、怖くてしかたなかったの 母に捨てられて人を疑う癖がついてるのにこんな優しく家族に受け入れられてこんなに幸せでいいのかなって怖くて仕方がなかった 一郎は手放しで、家族になればいいじゃないって歓迎してくれる でも明子はそんなのいいのかなって思う
「どうして飛べないんだろう、こんなに愛しているのに」、「あなたの優しさが怖かった」、一郎は愛していてもどこにも行けない 愛があっても不可能なことは不可能なままだ
一郎は幸せの真っ只中で、そこから「おいでよ」って優しく言う その純粋な無垢な真っ白な心を曝け出しながら でも現実は違う 一郎の優しさがあっても人は救われない信じていても叶わないことってある どれだけ愛していても明日死んでいることだってある 不躾に押し付けられるその拒絶しようのない悪気のない優しさは愛ではあっても救済ではない それはもう二度と後戻り出来なくなるような深く暗い洞穴へ潜っていく心中と同じ罪悪のようなもの
明子みたいな猜疑心や疎外感がつかこうへいにはあって、恨一郎もまたそうだった 日本のことを深く愛し、でも許さず、半ば信じていない 恨一郎は最終的に日本への報復を正当化できたのだろうか
恨一郎は救われたかった 愛されたかった 幸せになりたかった その思いは常に前未来形で恨一郎の中に描かれたと同時に過去形でも現れていたのだと思う 死ぬために生を受けた、その不可能性を背負った男は、己の闘争のために生き、死んでいった 自己を追いかけ、自己になりきれた瞬間、自己が消えた 眩い閃光に包まれた最後の最後、黒い雨とともに降り注ぎながら、恨一郎は幸せになれたのだろうか 

・「…愛しています。一日もあなたのことを忘れたことはありません」

「もし私が悪魔でなく人間であるなら、必ずや原爆投下ボタンを押した指先から私のからだは腐りはじめ、私の心に巻かれた自爆装置は、四十万広島市民の呪いとうめき声によってそのスイッチが作動し、私の五臓六腑は肉片となって飛び散ることでありましょう。そして私の魂は、遥か彼方、宇宙の塵となって、けっして許されることなく幾千万年もの時を旅することでありましょう。漆黒の闇を旅する意識体の孤独を癒すものは、かつて愛されたことがあるという記憶だけなのです。かつて愛したことがあるという記憶だけなのであります。その宇宙のやさしさだけが、漂う孤独な魂の唯一の光明なのであります。私は何ら恐れてはおりません。何ら恐れることはないのであります」

さいごまで暴かれきらなかった恨一郎の本心 読後、屈辱をつよく踏みしめて血を吐くような思いで立ち上がって報われなくて幸せになれなかった男のことをどうしても愛しくて仕方ない気がした

12月10日


塚ちゃんが誕生日です。おめでとう。記念みたいなものをそんなに形にしないのでしてみたかったけどいつかのインターネットを書き写してるみたいでやめた。

ほんとうは糸を引くような粘性のあるラブレターを書き付けたいのだけど生憎私はアイドルの温度も匂いも知らないので、超残念なことにそれはできません。きみも私も互いのために生きているわけではないのに、互いに今生かされている。とかひんやりとキモいこと書きたいのにな…

私はティーンによくあるあのひねくれてる時期にもうそれはそれは絶対的に大衆文化を憎んでいて、ジャニーズとか絶対ハマんねーわと思ってたのですがどうしたことか、塚ちゃんを好きになってからというものバカが治ったのかバカになったのかすんなり反抗をやめてしまって、自分が明るくなれたことをこんなにも素直に受け入れていることすらビックリ状態で、もうなんというか、この人はなんという引力を持っているんだろうと思いました。

私はまず金髪が好きです、金髪というもの自体が好きというよりは感覚が反応してしまう感じです。気になる。すごく覚えてるのは地上波でパフォーマンス後なんか超一生懸命汗だくで喋ってる金髪のひとイイな!ってことで、あとは少クラ見てたらいつのまにか黄色の人を目で追ってたことです。まっすぐってカッコイイなと思いました。塚ちゃんを好きになってからは私が良い子だった頃のように、純粋とか無垢ということに邪気を持たないということをもう一度できるようになりました。それは決して後天的なものを否定するのではなくて、一周まわったといったほうがたぶん正しい。つまらない固執の賞味期限は切れました。

私が塚ちゃんのことを好きになってから絶対1年は経っているんですがいまだに塚ちゃんがどういう人なのかぜんぜんわかりません。むしろ迷宮入りです。けど塚ちゃんを好きになったことでだいぶ全体が快方に向かうというか、ほんとうに病気が治る感じでした。いろんな人にも会えてごはんを食べてニコニコできて嬉しい。塚ちゃんはめちゃくちゃ明るくて元気でパワフルで一生懸命でいつだってキメてくる不変のアイドルのプロです。昔はどうだったかわからないけど、無理に飾らないしファンに暗みは見せない。塚ちゃんはとことんハッピーな感じ。だけど、(それに、)情緒が揺らぐものだと知っている。冬の空は高く突き抜けるように澄んでうつくしいということを知っている。塚ちゃんはそういうカッコイイ人です。

アイドルを推し始めてからわかったことは、好きってなんなんだろうなってことです。よくわからないということがわかりました。唯一不変なものが変化だみたいな、そういう感じ。いろんな方向に好きが散らばって伸びていって、嘘だろ、みたいなことでもすんなりと受け入れてしまえるような恋です。私にしてはほんとうに珍しく、自分から検索したりとか情報を片っ端から集めたりということをしないので、ほとんど何もわからないまま好きになっているんだけども、だからこそたまにリスキーだなってpostとかをしてしまうのだけども(ここはちょっと反省)、逆にというか、やっぱり自分の感覚だけでいいやって感じです。担当とか箱推しとか担降りとかリア恋とか貶し愛とかよくわからないけど、ウワー好きだな!というあの胸があふれるような一瞬が確かに好きなことだけはきちんと覚えて掴んでおきたい。アクロバットをガンガンに決めていったり、ソロの構成からぜんぶひとりでやっちゃったり、私服姿がオスすぎて撃沈案件であったり、過去を(否定しないし)(だけど)あんまり明かさなかったり、MV撮るときカメラに抜かれてないところでゼーゼーしてたり、塚リカちゃんとかレズリーで出てきたときの爆発力とか、だいぶ飛躍しちゃってなかなか伝わらない発言とか、ハア?みたいな顔してピョーって高い声出す塚ちゃんとか、何がそんなに楽しいんだよ!カワイイな!みたいな踊ってるときの笑顔とか、ちょっとこれ書いてるだけでマスクしててよかった〜となるね。最強におもしろかっこかわいいね。好きだね。
好きだから拗れるんだけども、単純にまっすぐにサイコーだなー!好きだなー!みたいな気持ちはみんな同じくあって、そこからですから。独占欲と嫉妬心と愛情を履き違え続けてゲーゲー吐いてる女の子は可愛いし、例えば正弦曲線のあのサインカーブをうつくしいと思うような、数値化できないふわふわな愛を信じ続けることは尊いし、アイドルはこうあるべきだとかではなくて、好きだなーってシンプルにいられたらなと思います。好きならすべてヨシ!愛とは素晴らしいことです。

塚田僚一(28)にもめちゃくちゃ期待してます。超幸せになってね!

よっしゃ〜ケーキ食べよっと