広島に原爆を落とす日




池袋は迷う。去年、台風が夏を拐って行った日を思い出しながら赤く長く伸びる線を捜して歩いていた。わたしの池袋はだいたい宮沢章夫の記憶。池袋は演劇を観る街・迷う街。と、いうことで、つかこうへい演劇作品『広島に原爆を落とす日』を観たわけです。

舞台について、脚本やら演出やら、そこがなんかアレだなというのはまあよくあることで、いろいろ思うところはありますがそこはまあどうでもよく、とにかくただただ目の前の現象だけを見ていました。錦織一清に「Don't think,feel!」と言われたので、ブルースリーにのっとってそこの精神からある一点を見ない、感じてすらもいないというその我が闘争2時間続けていました。この行為の不可能性こそがこの舞台のようだ、と思い、完全なるフィクションとして享受し、フィクションの中をリアリティを持って生きるように書くことでこれも上演されるものというかたちをとる。ここに述べるのは本当にたんなる感想で、なんにも深く考えてない、相対化もせず人のことを勝手に考えるという性質のものですので批評とかでは全くなく(批評とかできないし)、感想として考えたことを書きます。ハードの部分はまったく書かずにソフトの部分を書きます。

小説も読んだけどまったく異質でありそもそも設定もかなり違うので別個に連ねました 

広島に原爆を落とす日について - 漸近 http://nezile.hatenablog.com/entry/2015/04/17/033811




まず言っておきたいのは戸塚祥太はディープ山崎に似合ってたな、よかったな、ということで狂気のための舞台にはぴったりだなと思った。つかこうへい以外も観たい、もっともっと観たい。ジャニーズ事務所全く関係ないやつ、きちんとした外部の舞台が観たい。

ディープ山崎は癇癪っぽいし卑怯で神経質で高慢ちきな男だけど才能のある美しい男で、心の深いところで愛される男だった。優等生がグレる、というよくあるコンプレックスのようなものがあって、ほんとうのところ、自分のことを信じられない。圧倒的で絶対的な、よくわからないものである愛、その愛のせいにでもしないと覚悟を決められない。
『愛されたかった 愛されたかった 愛されたかった』
『死にたくない 死にたくない 死にたくない』
『生きたかった 生きたかった 生きたかった』
そう絶叫することや、あなたを愛していること、すべての本音も、戦争のせいにしないと言えない。だけど本来人間とはそういうもので、卑怯で、弱い。そのような性質を恥ずかしげもなく舞台にぶちまける山崎はいかにも人間くさい。過剰さがきちんと過剰で、言葉は膨大な意味を含んでいるから裏を読もうとしないとわからない。
山崎は、なにかを理由にして自分を責任から逃さないと進まない、そういう弱い男だった。同時に、愛する者を愛し抜き、自分の使命を全うできる強い男だった。
さらに山崎は白系ロシアの混血であるというコンプレックスを持っている。
いくら日本を愛して、日本を勝利へ導く頭脳があって、人格があっても、「混血だから」というその言葉だけで今までしてきたことが全て無駄になる。頭脳とか美貌とかいろんな才を持ち合わせすぎて疎まれ、それは混血という揚げ足の取られ方をする。その人間のなかにどんなものが渦巻いているかも知らずに、それだけの理由で切り捨てられる。そういう不条理な環境のやりきれなさとか行き場のないコンプレックスが、戦争というでかいテーマに乗って爆発する。 山崎の辿る運命は、真実を唱える人間が消し去られることと似ているなと思う。
ほんとうの愛国心とはなんなのか。日本を勝利へ導き世界を支配することか。日本を敗北へ導き植民地化することで新しく日本をつくりなおすことか。ほんとうに愛するということは。愛するひとのためにいのちを捧げられるということなのか。戦争とはなんなのか。
戦争にも勝ち方がある。世界がひとつの社会となって予定調和の空気を動かしていたことがわかる。戦争は愚かなことだ。御国のために死んでいったからではなく、愚かな争いの犠牲になったいのちの怒りを鎮魂するために手を合わせる。誰もが誰かのことを思って死んでいった。慰安婦と兵士のあいだにも、温度のある恋心があったこと。勝つための犠牲となって死んでいきたかったこと。誰もが死にたくなかったということ。だけど一旦終わらせないと始まらないことがある。守れないものがある。
原爆はこの世に生まれてしまった。だからいつかは、どこかに落とされなければならなかった。人類は1度、その脅威を目にしなくては反省しなかったであろうから。でないとどんどん強力な武器がつくられ世界は終焉する。なぜならその武器は最も優れたものだから。天才は時に危険でもある。その最大に強力な武器を使えるのは最高級に強力な人間でなくてはならない。凡人には到底扱えない。正気で大量の人間を殺戮できるのは目的が愛のためだからである。逆に考えてみれば原爆を落とすということは、そんな狂気みたいな正気さを持った男でも愛という理由がなくてはならないようなことだった。そして同時に、愛とは、あらゆるものに打ち勝つ圧倒的で絶対的なものだということを思う。
原爆というものが完成してしまったときから投下されることは運命として決定付けられていた。原爆を投下できると判断された唯一の男であるディープ山崎もまた、最も優れた頭脳を持ち、生まれながらにして、最も優れた兵器と死を共にする運命を決定付けられていた。彼は愛するひとの胸に還るように原爆を投下したのだろう。山崎は自分を投下したのだ。終わらないと始まらなかった。原爆は未来を背負っていた。また同じくディープ山崎も、終わることに始まりの光を感じていた。生と死を同時に背負うこと、その不可能性こそが闘争のはじまりである。不可能性を生み出す母も、もちろん愛という、得体の知れないものからはじまる。
イデオロギーとかばかばかしいけど、どんなに愛していても添い遂げられるとは限らないし世界はどうしてもうまくいかない。つかこうへいはひとりが幸せになれば世界のどこかでひとりが不幸せになる、それが民主主義だと言ってたけどそんなのは民主主義じゃなくても同じことで、共産主義とかなにもかもが動かなくなって静かに平和になることのために争いをよしとするのは間違ってる。そもそもあなたも誰かを愛しているでしょう。誰かに愛されているでしょう。どんなに心が死んでても、なにかをうつくしいと思うでしょう。そういうふうに、ことばになりにくいことを、やわらかく手のひらで撫でるように思い出していかないと、わたしたちは平気でやさしい心を忘れてしまう。戦争が悪いとかぜんぜん言いたくない。ディープ山崎のことをただただ見ていたあの気持ちをずっと大切に抱いている。
白く熱い閃光に包まれるとき、せめてそれを来たる希望だとどうか誤解してほしい。報われなかった愛のために死ぬ。永訣する男の身に、ひかる雨はばらばらと音を立てながら、黒く地面にふりかかる。