おたくの在り方について

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とくに何とは言わないけれど「おたく」と呼ばれる生き物について思ったことです。

 

自分はいまアニメに逃げ込んでいるんですけど、アイドルを追っかけていた(まだ現場は行ってるけど)ときを振り返って思うのは、ジャニヲタは人間を対象にしたものだなっていうことだった。
ハマる対象はジャニヲタといってもそれぞれ、アイドルという構造に興味のあるおたく、舞台に興味のあるおたく、ダンスに興味のあるおたく、などなど多種多様、だけどみんな人間のファンであることには当てはまると思う。ところが例えばアニメのおたくになったとすると、キャラクターに焦点を当てておたくをやっていても、どうしたってアニメは虚構で20話くらいでその世界が終わるので、そのキャラクターが生きている世界もその時点で消滅する。だからジャニヲタのアカウントにおいてはツイッターのbioに「A.B.C-Z塚田僚一担当です」と書けば、塚田僚一にまつわるすべての事柄について共有する仲間を選別することができた。けどアニメは「アニメ好きです」と書いたって、なんの?となるし、固有名詞を入れたところで、いやそのアニメ終わってるじゃん、ということで仲間の絶対数は減るわけです。だいたいのおたくのなかではひとつの作品が終わればその世界も終了するので。
ジャニーズはファンとして選べる対象(既存の活動してるグループ)もそんなに多くないからパッチがでかくておたくもバラけず、コミュニティがつくりやすかった。だけどアニメは固有の作品に執着しないと、コミュニティは1クールごとに解散する(この監督が好き、この声優が好き、とか、やっぱり現実に生きてるひとを追う場合はジャニーズパターンと同義で別)。こういうふうに、固有の作品だけのおたくになる場合、既に過去に終わってしまったものを、わたしたちが供給された20話そこらと劇場版くらいの資源だけを、繰り返し繰り返し味わうことになる。だから緻密になる。そうして隅から隅まで味わい尽くすと、今度は物語の続きがほしくなる、もしくは、自分で想像するようになる。つまり、「今」が滅却された状態だと、過去と未来を自由に生きられることになる。
対して、ジャニヲタは「今」のおたくである。ジャニーズのおたくは、今現在の彼らの姿が見たい、今現在の彼らの幸せを考える、ずっと夢の中に居たいこどもであり、自担を守りたい母である。よって、ある意味エゴっぽい種族なんですよ(一概には言えないけど)。没入的というか、多くのジャニヲタはあんまり鳥瞰的ではない。だから目を覚ましたくなくて、変化とか終焉を極端に嫌う。物事は変化するし、いつか終わるのに。なので、ここで提言する。

おたくとして生きるなら、終わってからが始まりだろう!

ジャニーズはアルバムやらツアーやらテレビ出演やら舞台やら映画やらなんだかんだ短いスパンでイベントが常にあって、ジャニヲタとしての人生は駆け抜けるスタイルで執り行われるしかない(そのなかでもきちんと情報収集をしてひとつひとつ丁寧に味わってブログとか書いてイベントを自分のなかで収束させて次へ、っていうのを忙しいなかでやってのけるからやっぱりジャニヲタはすごいんだけど)。だから駆け抜けるぶん、通り過ぎてしまうことがたくさんある。ほんとうは多分それで、それがいいんだと思う。現在、そのときが最高に楽しければそれでヨシ、というのはほんとうにいいことだ。しかし終わりがあるからこそ立ち止まって振り返れるし、過去を味わい尽くしてそれでも解けない謎とかを補完し妄想し続けて死ぬのが楽しいんじゃないか!と思う、おたくとして生きるならば。
だから要するに、終焉は死じゃないよってことを言いたいです。ここからが新章のスタートだと言いたい。あのときのあれはなんだったのか。そういうのに対峙するおたくの佇まいが好きです。みなさん絶望するな、絶望は原動力だ。