広島に原爆を落とす日について




これから話すことはインターネットじゃしてはいけないはなし だからきちんと書かないけど『広島に原爆を落とす日』という作品に出会って本を読んだり舞台を観たり諸々タイミングが合っていろんなことを考えたのでズラズラ書く 舞台のことはまた別に書く




・ 『広島に原爆を落とす日』のことを考えるときよく『アメリカの夜』のことを考えた「何者でもない自分」という存在への耐えられなさの事である。また『サーチエンジン・システムクラッシュ』とともに池袋のことを思った「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」


戦争の記念碑/正義と加虐性/愛の強さと弱さ/つかこうへいの演劇


・戦後70年ということでテレビとかでいろんな特集が組まれててお国のために死んでいって立派だったね という捉え方をするひといると思うけど戦後70年というのを盾にして愛国主義者が立ち上がるようでは絶対いけない 戦争に参加した自国も含めて世界を自省して「あれはよくないことだった」ときちんと痛みを痛がることをしなくてはいけない だれもヒーローじゃない かといってだれも死刑囚じゃない 英雄でも戦犯でもなければ、だとしたら、何が残ったんだろう 絶対に歴史の浄化を行うな 日本はいま痛みを完全に忘れている 
愛とか多幸感が表面張力みたいに溢れ出す前の静かな緊張のなかにあるとき 事象の善悪の判断はどうでもよくなって それだけがじぶんのなかで「正義」に変わる その信じて疑わないものを貫こうとしたとき、正義は暴走する 正義と正義がぶつかりあって戦争は起きる じぶんのことを善良だと思いこんでいる人たちに限って暴徒化する じぶんの意見こそ絶対に正しいと信じこんでいる人たちの口調はとても荒い
いまだに右派も左派も正義でも悪でもないってことはそういうことだ 様々なレールがあってそれを分かり合って受け入れてうまくやっていかないと世界は簡単に傾く
愛するということはたぶん もうひとりを攻撃することではなくて たったひとりを守ることをいうんだと思う それぞれに大切な居場所があって、あなたのことも大切で、どちらをとればいいのかわからない「いつかこうへい」という公平は 境界をなくすことではなくて 境界線はそのままに互いの差異をわかり合って共存するということなんだと思う 正義は乱立している 故に争わない という選択をとること
だから演劇という虚構において(あくまでもフィクションとして)シュミレーションするとき、ディープ山崎は日本人でもロシア人でもない、居場所のない人間として描かれたのかもしれない その男に愛する女ができて、女が母港となった 大切な居場所と大切なあなたがイコールになったとき、何もかもが手に入った男がどのような気を帯びるか 均衡する対象がなくなったとき、天秤は急激に一方へ傾く 上乗せされた多幸感を携えて、自らの聖域を確保した、怖いもの無しの男は一体 彼のその狂気ともいえる正気さはきっとそういうところから発生している 彼もまた世界で 世界のスケールが脳内でかなり伸縮してる 広島のことを考えているときそういうイメージをよく持った 
日本人は、ドイツ人は、アメリカ人は、祖国が母国であり、彼らは祖国を守らねばならなかった 祖国の誇りのために戦い、祖国の勝利のために身を挺した 恨一郎には祖国がない 祖国を愛さず、日本を愛し、祖国の人に愛されず、すべてを捨てて、日本の勝利のことだけを考えた
恨一郎は日本人である百合子を愛した 彼には百合子が祖国だった 彼の祖国は誰のものでもない、争われず、競争されない国家だった そこにはただ美しさだけが存在した 居場所のない彼にとっての祖国は女だった 女だったからこそ、恨一郎は愛国心やプライドなしにまっすぐな眼差しで国を、世界を見ていた
世界中の祖国は揺らいでいた しかし恨一郎はどれだけ重大な任務を背負おうと、どれだけリスクの高い戦略を組もうと、どれだけ憎まれようと、嫌われようと、狂うことがなかった それは彼の祖国が決して揺らぐことのないものだったからだ 百合子が生きてさえすれば、彼は正気でいられた 彼は決して結ばれることのない契りを信じることで保たれていた それは遠く、大きな、祈りのようだった

・死ね!殺してやる!という絶叫であなたを抱くのか/好きだ!愛してる!という絶叫であなたを刺すのか 属性や境界、そういう目に見えない線は絶対に無くならない 原因もよくわからないまま、人を滅ぼす それを救えるのは愛だけだ 愛はいちばん恐ろしい武器だ
愛は無条件だから危険 手放しだからバランスがとれない それなのに愛でしか戦争は終わらせられない
自己犠牲が愛を報う そのおぞましいほどの愛が人間を殺すことに、なんの意味があるのか 添い遂げることもできたはずなのに、世界でいちばん愛するあなたの真上に、誰もできなかった原爆を落とすということ そしてあなたはそのことを当然のようにして待っていてくれたこと 世界が滅ばないための犠牲

・そのまま飲み込めば骨が刺さるが、逆説的で反語的、それが演劇的であるということだ 真実は常に隠蔽される

・いくら富や名誉があったって、いくら立派な人になったって、なにかあれば結局「お前はよそ者だから」それだけですべてが崩れる だから信じていない 何も失うものはない 怖いものなんてない つかこうへいはいくら日本人が善人だろうと、世話になろうと、疎外感のようなものを感じていたのだと思う
これまたつかこうへいの演劇作品 『出発』で一郎の嫁明子がキャリーケースを引いて家を出ようとしている 明子が、岡山家はみんな優しくていい人たちなんだけどやっぱり私お母さんになれそうにないと言って泣く そこで一郎は俺はスーパーマンだったんだって笑わせようとする 笑え!笑えって、笑っていれば大抵の事は乗り越えられる
な?飛べるんだよ!俺飛んだことあるんだから、あれおかしいな、って飛ぼうとする 受け止めてやるから、お前の故郷も、お前が生きて来た歴史も、お前が何に痛んでいたのかも受け止めてやるからさらけ出せって。笑ってればいいわけよ、その笑顔を家族のきずなって言うわけ。それでも明子は笑わない
その優しさが怖かったの 好きになるほど、怖くてしかたなかったの 母に捨てられて人を疑う癖がついてるのにこんな優しく家族に受け入れられてこんなに幸せでいいのかなって怖くて仕方がなかった 一郎は手放しで、家族になればいいじゃないって歓迎してくれる でも明子はそんなのいいのかなって思う
「どうして飛べないんだろう、こんなに愛しているのに」、「あなたの優しさが怖かった」、一郎は愛していてもどこにも行けない 愛があっても不可能なことは不可能なままだ
一郎は幸せの真っ只中で、そこから「おいでよ」って優しく言う その純粋な無垢な真っ白な心を曝け出しながら でも現実は違う 一郎の優しさがあっても人は救われない信じていても叶わないことってある どれだけ愛していても明日死んでいることだってある 不躾に押し付けられるその拒絶しようのない悪気のない優しさは愛ではあっても救済ではない それはもう二度と後戻り出来なくなるような深く暗い洞穴へ潜っていく心中と同じ罪悪のようなもの
明子みたいな猜疑心や疎外感がつかこうへいにはあって、恨一郎もまたそうだった 日本のことを深く愛し、でも許さず、半ば信じていない 恨一郎は最終的に日本への報復を正当化できたのだろうか
恨一郎は救われたかった 愛されたかった 幸せになりたかった その思いは常に前未来形で恨一郎の中に描かれたと同時に過去形でも現れていたのだと思う 死ぬために生を受けた、その不可能性を背負った男は、己の闘争のために生き、死んでいった 自己を追いかけ、自己になりきれた瞬間、自己が消えた 眩い閃光に包まれた最後の最後、黒い雨とともに降り注ぎながら、恨一郎は幸せになれたのだろうか 

・「…愛しています。一日もあなたのことを忘れたことはありません」

「もし私が悪魔でなく人間であるなら、必ずや原爆投下ボタンを押した指先から私のからだは腐りはじめ、私の心に巻かれた自爆装置は、四十万広島市民の呪いとうめき声によってそのスイッチが作動し、私の五臓六腑は肉片となって飛び散ることでありましょう。そして私の魂は、遥か彼方、宇宙の塵となって、けっして許されることなく幾千万年もの時を旅することでありましょう。漆黒の闇を旅する意識体の孤独を癒すものは、かつて愛されたことがあるという記憶だけなのです。かつて愛したことがあるという記憶だけなのであります。その宇宙のやさしさだけが、漂う孤独な魂の唯一の光明なのであります。私は何ら恐れてはおりません。何ら恐れることはないのであります」

さいごまで暴かれきらなかった恨一郎の本心 読後、屈辱をつよく踏みしめて血を吐くような思いで立ち上がって報われなくて幸せになれなかった男のことをどうしても愛しくて仕方ない気がした