イットランズインザファミリー


run  [rʌn]
 1. 短期間旅行する,運営する,を経営する,ころがる,競争に参加する,通う,にじむ,溶解する,流れる,伝わる,広まる,の傾向がある,を追う,をぶつける,水を流す,を立候補させる,を印刷する,範囲が及ぶ,時が経つ,ある状態になる,継続する,ひらめく
2. トランプの一続き





目の虚ろな灰色のエネルギーたちが喧騒の坂を粘っこく下って、低い谷でひとつになる。でかい交差点の縞模様が磁界をつくって、人々を取巻く引力が増殖する。 そんな風景が渋谷の街には見える。クリアで目の痛くなるような画面に淀んだ空気がまとわりついて、嘘ばかりつきたくなる。そういう停滞したものたちを引っ掻くように早足で、坂をぐんぐん登っていく。傾いた視界のなかで、これからのことを考えて胸があふれる。ぼんやりしているうちにパルコに着いて、のろくて膨大な無気力の滓みたいなものを振り払うようにまた上へ上へのぼったところに劇場がある。

渋谷の夜、泣いたり笑ったりした記憶がまたいとも簡単に長い坂を転げ落ちていく。雑踏に擦れ違うときに幸せな気持ちを拐っていかれないように必死で人を避けて歩いた。もう泣きたくなかった。こんなに誰かを好きで幸せなのに笑っていられないことがものすごく悲しかった。


仙台の劇場も街の奥へ奥へと進んで行った先にあった。演劇空間は日常と切り裂かれたところに置かれているわけではないけれど、こういうふうに、坂を上ったり、街の奥へと進んだり、そのような身体の内に沸き起こる感覚に頼ることで、日常を希薄化するような場所が劇場になっているのだと思う。記憶に埋没してしまわないように、塗り重ねられることのない場所へと劇場は置かれる。虚構の記憶を生活が侵略してしまわないほうが私は助かる。そう思いながらも、思い返せど何も覚えていない。夢見心地の感覚は甘く残って香るのに、塚田くんがかっこよすぎて私は何も覚えていなかった。だからレポートも何もできない。けれど自分のなかに立ち上がった感覚だけは思い出せる。そのことだけ書いておきたい。





レズリーは塚田くんがやるべき役だったんじゃないかと思えるような舞台を観てきました。イットランズインザファミリーという舞台です。パンク少年レズリー(18)を演じる塚田僚一(27)のファンでとても幸せです。

この作品は、家族のはなし、と言ってしまうには簡潔すぎるのだけど、この舞台が決まったとき、塚田くんの役柄が愛人の息子として生まれたレズリーという少年で、パンキッシュな不良な子である、ということだけが分かっていて、そのときになぜか2014年のABC座二幕、龍神のソロを思い出した。


塚田くんはソロで家族のことを言っていた。「強くなれ」と両親に言われ、どうしたらいいのか分からなかったとか。私は塚田くんをいろんなことができる優等生だったと思っているので、"良い子"として育ってきて、いつも自分を見てくれているひとたちにいいとこ見せたい!という感じがある気がするのだ。メンバーが観劇に来ると台詞を間違えるというはなしからもそういう性質が見てとれる。時々する上目遣いの伺うような表情も。塚田くんは 期待に応えたい人 だと思っている。塚田くんはアスリート気質で結果主義で真面目な努力家で、でも周りに埋没できないような少し変なところがあって、それって芸能人であれば個性とか強みだけど思春期の頃とかはそういう部分はかなりのコンプレックスになる。それを受け入れて普通に接してくれたのが戸塚くんなんだろうってソロを見て思った。だから塚田くんが強くなるために持つ武器、刀を、差し出すのは戸塚くんじゃなきゃダメだったんだろうなって。家庭、うまくいっているのだけど深いところが見えないような気がして、だから深層まで染み込んできてくれる愛を求めたい感じがする。薄情なのはその癖というか、どうせ深いところを見てくれないだろうなっていうのはあるのかなと思う。その深いところを当然みたいに分かって見てくれたのが戸塚くん。戸塚田って表出するキャラクターは違っても根っこが似たもの同士だなと感じる。だから戸塚くんは特別なんだろうなとソロを見て思った。私はこのふたりにどこか親しみを感じる。このふたりが確実に私のなかに錆びついている。よく見てしまうのはそのせい

話がズレたけど、とにかく家族にいろんな拗らせる原因があって、それはひとつのやさしさなのだけど、もっとぶつかったり、いやに仲良く接したりしたいような家族関係なのではないかな、と考えてしまった。というのは、自分にものすごくそういう身に覚えがあるからです。あることないこと(ないことしか書いてない)書いてごめんなさいという気持ち 思う。という語尾に免じて許してほしい。





こうして塚田くんのことを書いていると、ますますレズリーって塚田くんがやるべきだったのではないかと思えてくる。私はそういうふうに感じた。どこまでも性質がリンクした。



18歳という年齢は、すっかり大人になってしまった大人たちが思うほど馬鹿ではなく、けれど愚かで、いろいろなことに多感で鋭く、然るが故に、必要以上に弱い。もうこんなにバカなことがあるのか、というくらい柔らかくて、鈍くなくて、愚直である。

レズリーはそんなバカみたいな時期に身を置いている18歳の少年である。
その18歳の少年は、自分の誕生日に、自分が愛人の息子であるということ、そして死んだと聞かされていた父はまだ生きているということを知らされる。その衝撃でアルコールを暴飲し仮免で家を飛び出したレズリーの格好はというと、染髪・モヒカン・ピアス・革ジャン・ダメージジーンズ・ロックT・ラバーソールという完全にグレてるやつ。
普通はこういうことがあると、人に当たったり、ひきこもったりしてしまうことが多いと思うのだけれど、レズリーは違った。まっすぐにグレている。マイナスの感情を内へ向けないで、外に表した。そういうふうに人に見えるかたちでグレるということは、なにかその反抗心みたいなものに気付いて欲しいという思いがあったのだと思う。だから根本が善人、というのがまずあって、俺は傷付いてしまったんだって気持ちを誰かに分かってほしかった。それをわかりやすいかたちでアピールして、あとの言わなくていい色んなことはきちんとしまって。父親に捨てられた恨みとか悔しさと、あとは、父親に愛されたい、というほんとうの気持ちとか。本音が隠されているかもしれないという可能性すらも隠してしまう。そういう器用さ、とはまた別の、人間としての性質みたいなものが塚田くんのようだった。
塚田くんのソロのはなしをまたする。塚田くんのソロは正直分かりにくかったという声を聞くことがしばしばである。けれど私はそれこそが塚田くんのソロなのだと思った。塚田くんはそういうひとだ。本音をきちんと言った上でうまく煙に巻く。だから彼は明るい塚ちゃんのままでいるのだと思う。悲しみや涙、苦悩を想像できないような底抜けの明るさ。それがA.B.C-Zの塚ちゃんだし、塚田くんのポリシーなんだと思った。



こうしてレズリーは半狂乱になって家を飛び出してパパに会いにいくのだけど、その姿勢も塚田くんそのものだ。レズリーは聞かされた事実にショックを受けたけど、ひきこもることなくパパのところへ直接会いに行った。その身軽さ。内に牙を向けるんじゃなくて、真摯にほんとうのことを知ろうとして。いじけるんじゃなくて、解決しようとして。レズリーも自分に正しく生きたかったのだ。そういう熱量とかってなかなか無いし、難しいけど、真実を探求するのにはとても真っ当な姿勢で、そういうところもものすごく塚田くんみたいだと思った。しかもレズリーはパパに会えて嬉しいと言う。この作品はレイクーニーの戯曲に邦題『パパアイラブユー』で載っているものなのだけど、そのとおりパパアイラブユーという勢いで、レズリーはパパに会えて「マジで嬉しいんだって!」とか言いながらとびきりの笑顔でにっこり笑う。あれだけ自分を走らせた酷い事実をつくったパパに会っても、ヒーローで嬉しいと言える人間性。それが塚田くんだ。真実以外には興味がない。過去のことを許してすべてを博愛する、というよりも、結果主義であり、他人のあれこれとか、そんなことは何も彼にとっては何も重要ではないのだ。だから今までのなにもかもを手放しにして喜んで笑うことができる。今がただ幸せだ、そういうふうに見える。

そして、レズリーはものすごく賢い。レズリーはもう18で、神学−牧師、という字引が脳内に構築されている人間で、デーヴィッドが「言っても君には分からないだろう」という固定観念からも分かるけれど、レズリーという人間は、18歳の少年というのは、大人が思っている以上に聡明なのだ。だからレズリーは、きっとうっすらと気づいているんだと思う。むしろ、紙の裏にインクが滲むくらい濃く、分かっているのかもしれない。ヒューバートがほんとうのパパではないことに、そして、ほんとうのパパが、デーヴィッドであることにも。
けれど、何かのために、きっと自分と、自分を捨てたほんとうのパパのために、やさしい嘘を吐き続けてくれているヒューバートがほんとうのパパであってほしい、という思いだったり、デーヴィッドにも自分のために立場や栄光を捨ててまで自分のところへ来て欲しくない、というような思いだったりがレズリーにはあったのではないかと思う。ほんとうはすべてを投げ打ってまでしてもデーヴィッドには自分のところへ来て欲しいのだけど、パパがそれでなにもかもを失ってしまうのならば、自分の幸せよりも、パパの幸せを選びたい。そういうやさしい祈りみたいな気持ちがレズリーの中にはあるのだと思う。というよりも、そもそも瞳の色が両親とまったく違うことに、18歳が気付かないわけがないのだけど。

レズリーは、そのような気持ちが自分のなかにあることをはっきりとクリアすぎるほどに自覚した上で、気付かないフリをしている。けれど、そういう確信犯というあざとさとか悪さを感じさせないくらいの愛嬌や純粋さを持って存在していて、なのにふとしたときに、もしかしてこいつはほんとうのことに気付きつつこういうふうに振舞っているのかな、ということを邪推してしまうような恐ろしい聡明さをレズリーに感じることがあって、それも塚田くんみたいだなと思った。

賢いレズリーはきっとほんとうのパパであるデーヴィッドのためのみんなの嘘にも気付くはずなのだけど、最終的にレズリーは嘘のパパであるヒューバートをパパとして受け入れて家族として暮らすことにした。レズリーにヒューバートの血は流れていないけれど、家族ってきっとそれでいいのだろうなと思ったのは戸塚くんの出演した舞台『出発』で岡山家がそうだったように、血が繋がっているから家族なのではなくて、家族になろうとするから家族であるという思いがあるからです。

だからレズリーはパパがほんとうでも嘘でも受け入れたと思います。結局はいちばんの幸福を選んだということ。事実だけが幸せなわけではないし、それならばみんなができるだけ幸せになれるほうへ向かえばいちばんいいです。嘘も方便。やさしさの記号学。そのために潔く何かを諦めることができる性格も塚田くんだなあとか思いました。

まあずらずら書いてみるとこういうことを言うのがニッポン人だなーという感じがします。湿っている。イギリスの下品で口が悪くて身軽な、乾いた教訓のない笑いがいちばん格好良いって分かってる。
これからも明るい塚ちゃんが大好きです!愛と勇気と救済をくれるアイドル塚ちゃんが大好きだよ〜♡



(2014.09.24渋谷PARCO劇場/2014.10.19仙台イズミティ21)