おたくの在り方について

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とくに何とは言わないけれど「おたく」と呼ばれる生き物について思ったことです。

 

自分はいまアニメに逃げ込んでいるんですけど、アイドルを追っかけていた(まだ現場は行ってるけど)ときを振り返って思うのは、ジャニヲタは人間を対象にしたものだなっていうことだった。
ハマる対象はジャニヲタといってもそれぞれ、アイドルという構造に興味のあるおたく、舞台に興味のあるおたく、ダンスに興味のあるおたく、などなど多種多様、だけどみんな人間のファンであることには当てはまると思う。ところが例えばアニメのおたくになったとすると、キャラクターに焦点を当てておたくをやっていても、どうしたってアニメは虚構で20話くらいでその世界が終わるので、そのキャラクターが生きている世界もその時点で消滅する。だからジャニヲタのアカウントにおいてはツイッターのbioに「A.B.C-Z塚田僚一担当です」と書けば、塚田僚一にまつわるすべての事柄について共有する仲間を選別することができた。けどアニメは「アニメ好きです」と書いたって、なんの?となるし、固有名詞を入れたところで、いやそのアニメ終わってるじゃん、ということで仲間の絶対数は減るわけです。だいたいのおたくのなかではひとつの作品が終わればその世界も終了するので。
ジャニーズはファンとして選べる対象(既存の活動してるグループ)もそんなに多くないからパッチがでかくておたくもバラけず、コミュニティがつくりやすかった。だけどアニメは固有の作品に執着しないと、コミュニティは1クールごとに解散する(この監督が好き、この声優が好き、とか、やっぱり現実に生きてるひとを追う場合はジャニーズパターンと同義で別)。こういうふうに、固有の作品だけのおたくになる場合、既に過去に終わってしまったものを、わたしたちが供給された20話そこらと劇場版くらいの資源だけを、繰り返し繰り返し味わうことになる。だから緻密になる。そうして隅から隅まで味わい尽くすと、今度は物語の続きがほしくなる、もしくは、自分で想像するようになる。つまり、「今」が滅却された状態だと、過去と未来を自由に生きられることになる。
対して、ジャニヲタは「今」のおたくである。ジャニーズのおたくは、今現在の彼らの姿が見たい、今現在の彼らの幸せを考える、ずっと夢の中に居たいこどもであり、自担を守りたい母である。よって、ある意味エゴっぽい種族なんですよ(一概には言えないけど)。没入的というか、多くのジャニヲタはあんまり鳥瞰的ではない。だから目を覚ましたくなくて、変化とか終焉を極端に嫌う。物事は変化するし、いつか終わるのに。なので、ここで提言する。

おたくとして生きるなら、終わってからが始まりだろう!

ジャニーズはアルバムやらツアーやらテレビ出演やら舞台やら映画やらなんだかんだ短いスパンでイベントが常にあって、ジャニヲタとしての人生は駆け抜けるスタイルで執り行われるしかない(そのなかでもきちんと情報収集をしてひとつひとつ丁寧に味わってブログとか書いてイベントを自分のなかで収束させて次へ、っていうのを忙しいなかでやってのけるからやっぱりジャニヲタはすごいんだけど)。だから駆け抜けるぶん、通り過ぎてしまうことがたくさんある。ほんとうは多分それで、それがいいんだと思う。現在、そのときが最高に楽しければそれでヨシ、というのはほんとうにいいことだ。しかし終わりがあるからこそ立ち止まって振り返れるし、過去を味わい尽くしてそれでも解けない謎とかを補完し妄想し続けて死ぬのが楽しいんじゃないか!と思う、おたくとして生きるならば。
だから要するに、終焉は死じゃないよってことを言いたいです。ここからが新章のスタートだと言いたい。あのときのあれはなんだったのか。そういうのに対峙するおたくの佇まいが好きです。みなさん絶望するな、絶望は原動力だ。

ボクの穴、彼の穴。

あな【穴・孔】
反対側まで突き抜けている空間。「針の―」 深くえぐりとられた所。くぼんだ所。「道に―があく」「耳の―」 金銭の損失。欠損。「帳簿に―があく」 必要な物や人が抜けて空白になった所。「人員に―があく」 不完全な所。欠点。弱点。「下位打線が―だ」「彼の論理は―だらけだ」 他人が気づかない、よい場所や得になる事柄。穴場。 競馬・競輪などで、番狂わせの勝負。配当金が多い。「―をねらう」 世間の裏面。うら。「世間の―を能く知って堺町とは気づいたり」〈根無草・三〉





人を殺します。夏みたいに、戦争。フラッシュバックで頭の中に鳴いた蜩が、わたしがもっとこどもの頃、季節の終わりみたいなきもちでぐちゃぐちゃに丸めてしまいこんでた真っ朱なノスタルジーを丁寧に揺さぶった。眠ったふりをしていたあの痛い感覚。きっとじぶんの知らないうちに、じわじわと侵食されていたのだと思う。帰り道、急に襲われた息苦しさに、駅のホームで座り込んでしまった。皮膚感覚が麻痺して、一滴の血だって見てないのに、赤黒い血が噴き出すのを目にしたときのあの眩み、指先に針を刺す前の掻痒感、貧血のときの息苦しさ、世界が白く静かに遠くなっていくような痺れにつけこまれて、眠れない夜みたいに、胸の奥の奥の奥のほうが疼いた。


渋谷PARCO劇場にて、舞台『ボクの穴、彼の穴。』を観てきました。
わたくしの人格における演劇好きな部分とジャニヲタの部分で観劇したんですがもうこの舞台は完全に演劇として観たので俳優と役の親和性みたいなことについては例によるレベルではあんまり言わないと思います。
この舞台は演劇として最高によかったと思った。圧倒されたとかじゃないんだけど、あんまり言葉が出てこないので感想書こうか迷ったけど書きます。たぶんこれはすんなり身体に入ったからもう何も言えねえ、という感覚なんだろうな…
これはまったくレポートではないし感想ですらないかもしれない。

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公演日程 2016年5月21日 (土) 〜2016年5月28日 (土) 
会場 パルコ劇場
翻案・脚本・演出 ノゾエ征爾




これは戦争のはなしです。
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これは過去の話じゃない。近い、未来の戦争のはなし。未来の戦争、と聞いて、わたしたちは何を想像するか。いまから10秒数えて、爆撃が起きる。そしたら戦争はSFのように行われるか?それはノーだと思う。戦争はむかしのように、渇いた地面に這いつくばって、人が、人を、銃で、爆弾で、土の中、空の上、自分の大事なもの、強さや弱さ、妬みや僻みや最悪なこと、平和や愛を歌ったこと、短い永遠を生きていること、ぜんぶのいろんなことを忘却の彼方に葬って、革命を起こそうとした、っていうか、自分が生きて幸せになりたかったんだよなーと思う。自分の幸せのための手段がもうこれしかないっていう(というかそんなに生きてたいか?)、自分が死んじゃう可能性とか、自分が死んでも別にいい、なんて微塵も考えていないから、わたしとあなたが、僕と彼が、他人であるということ、その幸福を忘れてしまって、テレビのリモコンを手に取るような軽さで、銃を持つ。
ひーとーりーにー、ひとつず、ひとつずつー、たいせつなー、いのちー、いのちー。戦争ってなんだと思いますか?わかりませんか、わたしもわかりません。だけど、それしか正しくないんだと思います。わからない。わからないから考えて、それでもわからない。多くの個人が、こちらとあちらに分かれて、多くの個人を殺して、多くの個人が死ぬ。自分の放った、たった1発の銃弾、それだけで心臓がひとつ止まって、いのちがひとつしかないということにはっとして、知っていたはずの、忘れていたことを鮮やかに思い出して、でも思い出したことも時間が経てばぼんやりとまた忘れる。モラルと現実は必ずしも照合されない。人を殺してはいけません。だけど、えらい人からの指令があったので、撃ちました。
これが戦争です、戦争ですね。恐ろしい夜。暗闇が空っぽの肉体へ入り込んでくる。皮膚、内臓、毛細血管の、先端の先端のそのまた先端まで、侵食されそうになっているところで、朝が来る。嫌になって限界だと思って死にたくなって、だけどどんなに生きる気がなくなったって腹は減るし、滑稽でいやになって、あーあーと思って夜空を見上げたら星が光ってて、きれいだなーと思って、でも星に光る理由はないだろうし、きれいであるという自覚もない、じゃあどうしたらいいんだよ、人間は。めちゃくちゃ生きるのが嫌になって、というか、めんどくさい、だから死にたい、というか、生きるのやめたい、って選択肢が思い浮かんだとして、たったひとつしかないはずのいのちはぜんぜん無くなってくれない。簡単に星にはなれません。なぜならわたしたちはただの人間にすぎないので。どうしても生きていかなきゃならない人間なので。夢とか、希望とか、そういうテレビからもらった概念なんてとうの昔に忘れてしまった。忘れることは残酷でかなしい。忘れて残ったことは甘美といえるものにもなっていき、ほとんどの人間は過去を愛してしまう。でも、きらきらを持ち続けることも、きらきらを失うことも、どちらも正しく、どちらも間違っていると思う。だってさあ、愛がすべてと言えますか。ここでは図太くあるよりも、現実的であることが重要なんだって。

だからというわけでもないが忘れないうちに演者のはなしをします。塚田僚一渡部秀がキャストであることで、演劇を観にきたひとよりは人間を観にきたひとのほうが多かったとは思う。だけど、終演後は演劇を観た感じがしたのではないでしょうか、勿論、人間を観にきてもいいし、というか今回はむしろ人間を観にきたひとのほうがより身を削がれるような思いで痛切に観たんじゃないかと思う。わたしはいちばん後ろの席からハコ全体を眺めていて、切迫して涙を流す女の子たちがたくさんいて、いい舞台だなーと思いました。隣の女の子はときどき声が漏れていて、恋だなって思いました。がんばれ。
2人芝居なのに、舞台上ではどちらも孤独で、2人の兵士は一時も交わらない。顔を合わせるのは想像の中でだけ、それでも彼らは願っている。互いを半ば信頼して、疑うというよりも常に問うている。朝起きて、空に向けて撃つ号砲はハローの手段、それから空腹に耐えて、暇に耐えて、そうしているあいだに夜が来て、気付いて忘れて気付いて忘れて気付いて忘れて気付いて忘れていつまでも終わらない戦争、をしているのかもわからないくらいの膠着状態にいて、ときどき訪れる災厄を恐れつつ、まだ自分に呼吸があることにほっとして、どちらもひとり、穴の中で、ずっとなにかを待っている。
待つことについて、わたしはよく考えるのだけど、村上龍の女はよく待っているし、ベケットはひたすら待つことを演劇にした。生きているわたしたちはよく待つ。待ち合わせの相手を、レストランの注文を、信号を、1分前に起きてしまった鳴らないアラームを、電車を、インターネットの繋がらない回線を、死を、あつい牛乳が冷めるのを、だれかがわたしを探してくれるのを、彼が振り向いてくれるのを。それをひとりで待つ。何もしないで、祈るみたいなきもちで。
待つあいだ、不意になにかが訪れることがあって、それまでは死ぬほどその瞬間を待っていたはずなのに、どうしてか取り逃がす。流れ星みたいに、あ、と思ってるあいだに、通り過ぎる。いつまでも捕まえられないから願いは願いのまま膨れ上がる。そうやって真面目に真摯にきちんと待って辛抱しても、一個人のことなんて誰も見てない、そのくせ、少しでもはみ出ようものなら吊し上げられる。我慢して我慢して、従ってきただけなのに。
「僕はもっと出来る子です」
「誰も気づいてくれないけど」
ほとんどの出来事は待っているあいだに流れてきた偶然のようなもので、強固な意志でも大きな流れは変えられないことのほうが多くて、生きているのが無駄だと思うとか、死にたくなったり、絶望したりするのも、当たり前なのかもしれない。
かといって、ひとりはかなしいことばかりではありません、というのも、この舞台において、塚田僚一の孤独は前向きな孤独で、渡部秀の孤独は不安な孤独であった。ふつうにみんなが抱く孤独は、うつむくようなきもちのものだと思うけど、前向きな孤独というのは、ひとりを選ぶということ。ひとりでいることを選択することです。それは強いとか弱いとかではなく、ただそうある、ということ。ひとりがさみしくないのがかっこいいわけでも、ひとりがさみしいのが恥ずかしいわけでもない。選択肢はただ目の前にあって、正義と悪が紙一重であるように、別にどっちを選んだってそのときはそれで正しい。
舞台の上、塚田僚一の声には諦観と絶望と放棄、渡部秀の声には誠実と希望と呆気が含まれていた。24歳と26歳の青年。家族や友人を愛していて、憎んでいて、戦争が嫌で、戦争に加担して、それでも生きていて、人間だった/人間である、この2人のどちらがまともだったって、わかりますか。どちらが間違っていて、どちらが正しいって、わかりますか。
ぼくと、きみだけで戦争を終わらせよう。たったこれだけ、偏見を取っ払ってまっすぐ考えればわかるし、思い出せるはずなのに、これができないひとがたくさんいるけど、だからこそ、わたしはこの演劇に祈りを乗せたいなと思いました。こういう物語が誰かに気付きを与えるのを待っている。とはいえ、完全な幸福なんかどこ行ってもありえないし、人間みんな整合性なんてつかないはずだから、こういうことを体現できそうな2人が演じていてキャスティング超よかったなと思いました。

それと、ワイドショーかなんかで、製作発表みたいなニュースで、あなたにとって「穴」ってなんですかって訊かれてた。塚ちゃんはめちゃくちゃ淀みなく言ってた。
A.B.C-Zです」
塚ちゃんにとっての「穴」、ぜんぜん定義が違ってビビった。穴は「居場所」だった。例えばみんなに家の中で落ち着く場所を訪ねたときのトイレとか、部屋の隅とか、そういうところ。コントラストがすこし濃いところ。自分の解放区なんだと思う。収まりつつ、無形でいられる。いいなーそういう考え。こういうところで不意を突かれまくるたびにハッとして、もう何億度目か、塚ちゃんはフラットだなーと思う。概念を即解体してまっすぐ考えられる。だから斜め上を行ってるようですごくまともというか、ほんとうの正しさだと思う。いつも形より中身を見ていて、記号内容に常に柔らかく触れている、そういうところがマジで最高だ。

あと、ノゾエ征爾もパンフレットで言及していたけど、ノイズのこと。わたしの思うノイズっていうのは人間の人間的なるもののことで、猥雑で混沌としていてわけのわからない整理のつかない複雑な理屈の通らない切り分けられないもののこと。例えば肉体。例えば思考。例えば都市、人間、演劇。それらの生むダイナミズム。思考はコントロールできても、脳や肉体はバカほどにまっすぐで、好きとか嫌いとか、本能に根を張ってるものはどうしようもない。身体がなくても戦争ってできるかな。
「現代」ニッポンで「生きる」僕らの「身体」から生まれるもの。丈夫な身体を持って、声を出す。おなかが空いたな、そう呟いて、ひとりで穴の中にいる。終末のPARCO劇場の舞台の上の、あの暗くて狭い戦場にいたのは、まだ柔らかいこどもだったと思う。こどもがこどもを殺して、それでも彼らは愛を知っている。

上空から穴の中へ放り込まれた赤い戦争マニュアルとともにわたしたちは墜落する。渋谷っていう落ち窪んだでかい穴の中に建つビルの9階で、死んでしまう柔らかい身体を持ったわたしたちが、互いのことをなにも知らないまま、ノイズのことを考えたり、考えなかったりする。隣の席で、双眼鏡で穴の中を覗く彼女はたぶん、自分が見ているものがアイドルという記号にまみれていて、自分が何も知らないということも忘れている。ただ高ぶりだけがそこにはあり、だけど、その隣で冷静に狂っているわたしも、脈絡がない。あー、どうしようかなーと思う。みんな人間で、生きていて、ときどきおなじごはんを食べたり、おなじ光景を見たりして。みんないろんなことを誤魔化しながらがんばって生活してる人間なのに、いつか銃を持って戦場で会ったりするのかな。死んだ青くて赤い顔を見たりするのかな。生まれる前に死ぬ。死んだあとも死ぬ。死ぬのはいいけど、みんなかわいい。歯を食いしばって現実を生きていて、ときどき笑ったり、泣いたりするから、かわいいと思う。
「いままできみは何に耐えた?」
自問自答の合間に、There is nothing.を思い、見えないものを見ようとする。穴の中には空洞があった。どこまでも狭くて暗い、空洞。戦争っていう記号に覆い隠されてがらんどうになってしまった、人間、という温度。忘れられたかわいい個人。
「指令を下さい」
砂漠の底で、わたしたちは待っている。ただひたすら、助けを、時間を、誰かを、生を、死を、ここに停泊している最悪な日常を、終わらせてくれるなにかを、待っている。

劇場を出ると外は突き抜けるような青空で、暑く湿った空気に、人の匂いが混じっている。渋谷の坂の重力に従って逆位相音で相殺されるノイズの波と波、そうして加速する真空地帯では人が出会えない。あらゆる看板、人の会話、流れる音楽、それらの飽和して溢れた意味を丁寧に選び取って磁場に呑まれたわたしたちは、互いにとって、ひとつの現象にすぎない。残酷なシーン。それでもわたしたちはこの演劇を観て、またこういう痛切なきもちが訪れるのを待つことになる。明日、戦争が起きるかもしれない。自分の目の前で知らない人が死んだり、愛する人が死んだのを知らないまま戦争が続いたりするかもしれない。当然のように存在する悪意をどうするか。互いにやめたい戦争と、互いにやめられない戦争に、どういう感情を織り込むか。
待つあいだに考えることはいくらでもできる。それなのに、いつまでたっても雨が嫌い。雨なんて待てば止むのに、まとわりつく嫌悪に、抗う術がない。だから、どうか、と願いつつ、動く。すべてのひとのすべてのことが、うまくいくといい。

REPAIR〜アナタの人生、修理しませんか?〜

ふぉ〜ゆ〜主演舞台『REPAIR』を12/9に観劇しました。

観劇後のpostいちばんはじめはこれです

彼らを生で見るのははじめてのことでした。
日頃ふぉ〜ゆ〜に触れるのはSHOCK、PLAY ZONE、KinKi Kids堂本光一ソロコンサート などのDVD(姉が見てるやつを共に見てる)、ぴたラジ(姉が聴いてるやつを共に聴いてる)、ダンススクエアなどの雑誌(姉が見せてくれたり口頭で教えてくれたりする)、くらいなのでツイッターで自主的に情報を得ることもなく、観劇前は受動的に得られるくらいの情報しか知りませんでした。知っているのは彼らのお名前と彼らがどんな感じの方々なのか、というそれくらいのレベル 目の前にあったら食べるけど自分からは食べないというやつ

ふぉ〜ゆ〜はジャニーズJr.のユニットである という認識でやはり人目当てではあるものの、観に行く舞台なのにG2かよ というお得感と劇場はシアタークリエという小さい箱だったので久しぶりに「演劇」を観に行く感覚だった
(演劇というものをむずかしく考えてしまい作品を観に行くことが優で人目当ては劣であるという考えのひとがたまにいるけど人目当てというのはぜんぜん恥ずかしいことではなくむしろなんでもそうであるということ 無名でも良い作品が、クズでも売れてしまう作品に埋もれてしまうことが悲しいというだけであって この意味できちんとした純粋な客はそうそういないし実際にそうなのでこれ
都市の舞台俳優たち:アーバニズムの下位文化理論の検証に向かって (リベラ・シリーズ11)
をどうぞ読んでください
リペアが「ジャニーズの」舞台であるという点では自分自身が演者のファンである限りその人たちがどういう人なのかを知ってしまっているので、演劇的な効果、脚本、仕掛けのあれこれがどうだ、ということよりも、本人たちに焦点を当てて観てしまうわけで、それはひとつのまなざしであると思う
なのでこれは物語的な考察などというよりもリペアを経験しているふぉ〜ゆ〜についてのブログになります
ツイッターにもまあまあ連投(2015.12.09付)したんですがまとまって読めるのがいいなというのと、ネタバレ的なものはブログのほうがいいなというのでこちらに書こうと思った 以下感想のようなもの もうけっこう忘れたので設定とか違っても許してほしい


舞台上にはセット、作品のなかには音楽があるけど変にドラマチックではない
G2だしある程度の信頼をおいて斜に構えずけっこうまっすぐ見た 穿ってみる物語でもなく 極端ではないまあ普通にお芝居だった

ふぉ〜ゆ〜を見てまず思ったのは4人それぞれがもともと持っている性質とは反するベクトルを持ったキャラクターを与えられていたなという感じ そんなに性格とかけ離れた役というわけではないんだけど単純に考えたらこうはならないな、という役柄で「逆に」これがぴったりだった 彼らが表面的に見せているものからもうひとつ奥へ進んだところにある性質、みたいな部分を役に見たような気がする。それぞれの担当はグッときたんじゃないだろうか… だから表出するところは正反対でも根底がズレていないのでそれぞれの発することばが説得力を持っていたように思う しっくりこなくて入り込めないなということは全くなかったのでそこでまず彼らの巧さを知る。そうだふぉ〜ゆ〜とは達者な人たちだったというの忘れてた…

物語は無音から始まる。越岡さんの寝言そのひとことが観客の空気をつくると言っても過言ではないので、すごいの一言に尽きる。わたしの回では「マシュマロ、ふわっふわ…」であった。笑うしかない。
 越岡さんの役名はナオキ いつも肩をすくめてなんかビビっている 頑な そのくせ奔放で人懐こい 少し抜けている 正直者でいい子だけど空回りしちゃう的な性格
ナオキは越岡さんの残念みをのこしつつ、彼の辛辣さやロートーンさを消したような性格 ぴたラジなどで時折感じる(あっこの人関西のひとだったっけな)というあの達者さがあった 
最初のpostにも書いてたけど越岡さんはいちばん自然で違和感なし あと発声のよさ
ちょっとシリアスなシーンに彼がギャラリーで転けるところがあるんですがもうマンガかよという感じでズサーといっていてめちゃくちゃ笑った ものすごく空気を変えるのがうまくて好き〜…となった
とはいえ単純な役ではなくナオキは父の形見としての車の価値を信じている愛せるが故にかわいそうな役 彼は自分よりも車のほうが価値があるということを信じて健気に生きてきたんだよ つらい

辰巳くんの役名はダイスケ(めっちゃぽい名前)映画に影響受けすぎてちょっとイタく、純粋でまっすぐでアツい ええかっこしいだけどヘタレなとこもあるという性格
ダイスケは辰巳くん特有の熱量や突っ走ってしまう感じはそのままに、いちばん3枚目だった印象 いちばん笑いどころに置かれてたけどそれは例えば指をさして笑われるというようなものではなく、なんというか「愛らしいな」という笑い 彼にキャラクターを与えるとこんなにも光り方を変えるのか、というのは身に覚えがあり、タッキーのソロ(気まぐれJET)でポンポン降ってたときのアレ…なんだっけあのコンサート…
それといちばん爆発力があったように思う 客席がいちばん湧いてたのは彼パートだったな というのも、彼は緩急の付け方がめちゃくちゃうまい シリアスな場面から一気に笑いに持っていったとき客席で抑え込まれてた感情が一気に放出されたなというのを感じた 身じろぎひとつせずぐっとこらえて静かに涙を流してたお客さんがどっと笑って涙を拭うところを見た 空気の底にある栓が抜けたなと思った

ザキさんの役名はマコト いちばんまともな役だった(けどツッコミ側ではない)そして他の3人とはすこし違う性質の役どころでキーマンっぽい ファンがいちばん意外に思ってそうな感じだった
ザキさんはいつものようなお笑い役ではなく彼の繊細さとか善人感といったものがを引き出されてたように思う かといって、彼が元々持っているあの 笑わせようとせずまともにやるほどおもしろい という感じは残ってて翻弄されまくった 的確なおもしろさ だから尚更胸にくるような、いちばん切実なきもちをもらった気がする
マコトがミクを思う気持ちや態度に滲み出るあの優しさがめちゃくちゃ痛かった 家族にある種囚われ、憎み、でもそういうのがほんとうの愛だろう じぶんの人生を家族に捧げてる 盲信したものが一瞬で崩れて彼は生きる目的を失くしたけど 誰も悪くないとしたら彼は自分を責めるだろう そういう誠実さがつらかった 松崎さんがああいう役をやることでこの痛切さが浮き彫りになった気がする あと赤い血に染まった唇がマジで美しかったな…

福ちゃんの役名はトオル。トオルはプライド高いというか、福ちゃんのケロっとしてて何にも臆しない動じない感じ、それと彼が持っている堂々とした存在感がそのまま生かされてて、それ故に役柄の人間性のつめたさ、狡賢さが際立った 
トオルが現実だと信じていたものが虚像だったということを、それが真実だと知ったとき、その瞬間の揺らぎがめちゃくちゃ刺さった 福ちゃんてほんとうに独特のおもしろみがあって、それにまだ笑いそうになっちゃったりするんだけど、福ちゃんのコミカルさや滑稽さはもう一段階いけばきっと悲しさになる 悲哀とか虚しさとかやりきれなさに姿を変える そのときわたしたちはたぶん、喜劇が悲劇と表裏一体になるところを目撃する
福ちゃんはほんとうにいい演者だった 4人のなかでいちばん客を突き放したり連れてったりしてくれる演者だったと思う 客が引っかかってしまってるとこをうまく処理してた やっぱ舞台に立ってきた数が違うので、自分のことでいっぱいいっぱいになることはなく客席の空気をきちんと感じつつも気持ちを弛ませないでお芝居を進めてたのすごいなと思った


この舞台『REPAIR 〜アナタの人生、修理しませんか?〜』では「4U in HUMAN COMEDY」と謳ってある。
ふぉ〜ゆ〜の「(一般的な意味での)コメディ」でいうと、笑いというのはなかなか難しいもんだと思うのだけどみんなまっとうに(しかも役柄のままで)笑いをバンバンとっててすごかった ジャニーズだと「担当がなんかやってる可愛さ」というものだけで 温かな笑い が生まれてしまうのをよく見かけるのだけど、ふぉ〜ゆ〜は決してそんなことはなく、やっぱ達者だなと思った 
役どころの機能や置かれている立場によって笑いを取れる機会というのは均等ではないんだけど、果敢に、というかサラッと、ひとりで笑わせにいってたのは福ちゃん(かっこいい)ザキさんは関係性などで相対的に引き出す可笑しみ(まともさが面白いのは最高)越岡さんと辰巳くんは的確に笑われにいってた(こちらも超愛おしい)いずれにせよみんな役っぽければぽいほどおもしろくてひたすらうまくてやめてくれ〜〜〜ハマるだろ〜〜〜



コメディというのは「喜劇」である。喜劇とはたんに「人が思わず笑い興じてしまう滑稽な出来事」ではなく「諧謔・機知・風刺などに富む演劇」のことでもある

リペアのイントロダクションはこう↓
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古ぼけた油まみれの自動車修理工場。
運命の糸に引かれるように青年4人が集まってくる。
彼らは皆、目標を見失い、人生の途上で
パンク、ガス欠、オーバーヒートしていた。

やり場のない焦りや不満、憤りをぶつけ合う4人。
どこか憐れで、滑稽で、笑うしかない。

珍妙にも見えるガチンコ対決を通して、
4人は自分たちの人生にも修理が必要だと気づく。

そして…
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『笑うしかない。』笑うしかないのである。
演劇ではよく感覚が反転する。笑いというのは単純な愉しさだけではなく、悲哀や狂気や寂寥に姿を変えることがある。道化師は涙を流す。


ナオキが祈るように信じつづけてきた青い車のほんとうの価値、それが暴かれたと思われたとき、ナオキは愕然とする それだけを盲信してあたりまえだと思ってなかば真実から目を背けながら生きてきた
希望を失って、崩れ落ちるナオキの胸ぐらを掴んでダイスケが言ったことば
誰だってそれをやっていればもうなんでもいい、そういうふうな熱狂を持っている。

「お前そういうのねえのかよ」

わたしたちは生きるための意味を何ひとつ与えられていない。それでも生き続けなければならないから、なにかのために死なずに生活をつづける。愛するひとのため 成し遂げたい夢のため あるいは復讐のために たとえば夏にTBSでサスケという番組をやっているけどあのひとたちは毎年くるその日が目的になる それは決してバカにはできない 皆が持っているなにか目的と同じこと 例えば愛するひとを殺された人間はその復讐のために その大小にかかわらず、ひとつのきっかけでひとの人生は変わる。変わってしまう。

4人の夢や信仰は壊れた。真実を知ってしまったからだ。真実はいつでも隠されている。無知は幸福の要因である

ナオキはずっとみじめだった。じぶんよりこの車のほうが確実に価値を持つということが唯一の救いだった。
マコトは自分の思い違いのせいで生きる目的をいとも簡単に失った。
ダイスケは夢の眩しさにいつまでも追いつけない。
トオルがばら撒いた名刺は、そのプライドの残骸である。

4人はみんなで夢を失い、みんなで人生をリペアし始めたわけですがふぉ〜ゆ〜としても演じてみて様々おもしろかったんじゃないでしょうか 正反対なようでどことなく似ている役たち 互いに違った一面を見つつもそれが一層彼らの魅力を引き立てることになっていた感じがします 知らんけど



ハイ、というわけでね!
千秋楽も終わりましてリペアお疲れ様でした

9日に観たとき思ったのは、これから公演回数を重ねていくときっとどんどん舞台に流れるダイナミクスのかたちが鮮明になって、演者たちはどんどんその輪郭を掴んでいって、それからたぶん、コペルニクス的転回が劇場全体で起きる、すべての観客が「演劇」をみることになるんだろうなということ。でもほんとにそうなってたんだろうなと思います、なんせふぉ〜ゆ〜なのでね

ふぉ〜ゆ〜はわたしのなかで次も現場あれば行きたいなと思えるグループとなりました 身体に気を付けてこの調子でがんばって早いこと偉い人に見つかってくんろ

おわり

『ドラマ』について






ダヴィンチを読んだ。
『ドラマ』。彗星のような曲だと思う。いのちを削りからだを燃やして光る。日常/非日常の分離帯の彼方に疾走して爆ぜていく星。それとも気象衛星の標本か。しずかな夜の街にぼんやりと点滅する信号。
彼にとって青は熱い色だ。高温で爆ぜる燃料。火傷の痕を撫でる。刻まれる日記。暴かれたこころで活字と対峙するとき その鋭さに剥かれる胸のいくつもの層が血を流している。(ぼたぼたとことばがおちる。)それらは空洞化したからだに、肌いろの薄い皮膚を染めながら内側に留まる。からだの甘やかな流線が融解する。わたしはそれとまったく酷似した感覚をおぼえる:戦って描かれた少女たちの絵を知っている。
右に162°笑うと君の均衡は保たれる。背中に刺さる十字架を引き抜く両手を渇望している。少年は失った核を求めて旅をする。ひとりの少年の根源的な悲哀。喪失したものは、かつてこのからだが世界と一体をなしていたあの祝福すべき幼年性。
大きく息を吸う。ガソリンの匂いがする。空っぽのからだが求めている。掻き毟られた胸の刺青が腫れている。まっすぐに絶叫した喉は渇いている。腹が空いた。炭素。氷。メタン。ナトリウム。金平糖を舐める。青いままで大人になった。嘘みたいな幻想の 夢みたいな虚構に包まれた時間の上で。
何度も地図に手をかける。つめたい銀の針先で刺し続けた目的地。望遠鏡の倍率は上がり続ける。自転は加速する。夜の向こう側に誰かが待っている。顔は知らない。
「2061年までその場所でダイヤルを回し続けなさい」
拒まれた回答は待たれることがない。諦めと覚悟を含んで濡れた瞳を覗き込む。宇宙がある。傷口みたいな湿度の瞼が開かれている。閉じる。祈るように閉じられたいのちの接合面。増光した彗星。3時間後に約束された別れ。あの日ピンク色に染まった海原のひかり。付けられなかった青色の光源。
原石は洞窟にうずくまっている。わたしたちはそれを傷つける。輝く宝石は復讐を計画する。乱反射するひかりはわたしたちの水晶体を貫く。痛みを伴った破片が眼球を素早く通り抜ける。その彗星は身体で知っている。空が青いこと。海が青いこと。真っ白な肌に透きとおる静脈の穏やかな熱さ。血潮のうつくしい青さ。そういう色のことを身をもって知っている。みずいろのギターを抱えて。マニーとメランコリーの正弦曲線。規則正しい呼吸。鬱屈と心象に灯る青白い炎のゆらぎは次第にエネルギーの渦となって爆発する。
十字架が引き摺ってきた誤解や期待や物語で重装備した足取り。それは戦士のような面持ちで。人質にとっていた執着ごとすべてを還すために。とうといきもちで。駱駝はみんな眠っている。月の砂漠。治らない傷にアルコールを吹きかける。尖った破片を踏む足裏の、一歩ずつが、眩く、発光する。


SASUKE 2015

7/1 19:00〜
結局リアルタイムでサスケを見ました
リピート再生はできていません

見る前からラジオなどで塚ちゃんがこちらにサスケの結果を仄めかし、期待させてきたのでまんまと期待し、(マジか…クリアしちゃったのか…カッコよすぎるだろうな…カッコよすぎて死ぬだろうな…やだな…オンエアは号泣するし胸が痛いんだろうな…)と勝手に鬱屈となり、サスケをリアルタイムで見ない、という選択肢をかなりの大きさで用意していたのですが結局オンエアはリアルタイムで見ました 落ち着かなくて。 でもマジで最近は塚ちゃんのテレビ露出が増えてそのたびに塚ちゃんはカッコいいのでヴッ!胸が!死ぬ!という状態が2日に1回は訪れてたけど、それはだいたいツイッターやバインに流れてくる断片を見たときだった それら何枚かの写真や永遠にループし続ける6秒が正直つらくて自分でもバカだと思うけど必要以上に過敏になっていた これ以上カッコよかったらどうしようって意味のわからない不安が渦巻いてサスケからじぶんを隔離していた どういうことだよってじぶんでも思うけど どんどん塚ちゃんが売れてってこのままこういうことが多くなって今までみたいにフェードアウトするのかなっていうくだらない、ほんとうにくだらない後退に陥ってた だけど結局リアルタイムで見た 気付いたらすごく溌剌としたきもちで熱狂して応援してた 塚ちゃんの挑戦が終わってハッと我に返ったときにじぶん身体の軽さに驚いた ドーパミンが出まくっているあの感じ 塚ちゃんの出番ちょうどにつくり終えた夕飯はすっかり冷めてた

塚ちゃんはほんとうにかっこいいという前提で聞いてほしいんだけど うまく言えるかな サスケの塚ちゃんは思ったよりかっこよすぎずきちんとアイドルの塚ちゃんで、ほんとうにどこ行っても何してても塚ちゃんは塚ちゃんだった いつも思うけど塚ちゃんのことを考えているといつもどんどん現実のことを離れていって、胸が苦しくなるようなまさに「好きすぎて辛い」という現象が起こるのだけど、テレビにうつる第一次情報としての塚ちゃんを見ればそんなのはすぐに吹っ飛んでリセットされる あんなに苦しくなりかけてたのにあれはなんだったんだろう…という不思議さに笑ってしまう 塚ちゃんはいつでもその明るさで容赦なくこちらを笑顔にしてくれる いいなあと思う
心の中にあってもちゃんとした像を見ていない期間が長くなればなるほどおそろしく美化されたイメージが凝り固まって動かなくなっていって、だけど塚ちゃんはいくら付加価値をつけても幻想を抱いてもいつでもいつもの塚ちゃんでいてくれるし すごく安心する わたしは安心したい 塚ちゃんはほんとうになんにも衒っていないように見えるし本人が自家中毒に陥ってないし、自己矛盾がヤバそうなのにそんなことが匂ってこないのがいい わたしが死ぬまではほんとうのことなんてなにひとつまったくわからないのがいい わたしがざわざわするとき 見てるのは塚ちゃんじゃなくて塚ちゃんに重たい粘土をたくさんくっつけてしまっているとき 塚ちゃんを見て安心したい

ステージ自体はクリアしなかったものの塚ちゃんはすべての障害を越えていて、あとはボタンを押すだけだった ブザーが鳴ったとき、頂上に手をかける塚ちゃんの表情に、悔しさを含みながらも憑き物が落ちたような晴れやかさを思った
塚ちゃんはきちんと身体の勘を持っていて、じぶんの体力を把握しているからやっぱりそれ相応の自信があった でもサスケは初めてだとかコンディションのこととか世間の反応だとか絶対に不安はある なんとなくわたしは塚ちゃんが期待に応えたい人なのだろうなと思うから ステージクリアしたときのみんなの歓声や、ステージクリアできなかったときのじぶんの悔しさを思ってあふれるような高揚と嫌悪みたいな恐怖の狭間で揺れてたと思う だから、「すべての障害を越えること」と「次のステージに行けないこと」はすごくいい条件だった たぶん塚ちゃんは初めてでここまで到達できるなんて上出来と思ったにちがいない すべてをクリアした なにも問題はなかった だけど次のステージには進めない そこの安堵 じぶんは全力でやり切ったのでなんにも妥協していない だけど進まなくていい 時間がなくなった それだけ あの場面を見て 何重もの「初」を背負った挑戦はたぶんこれがベストなシナリオなんだとしか思えなかった ジャニーズで初出場しただけですごい 初出場でクリア目前まで行けただけですごい わたしならそう思いそうだなって感じた 塚ちゃんはいつもいちばん盛り上がる魅せ方をする
笑っていてよかった 這い蹲りながらボタンに手を伸ばす塚ちゃんは表情を歪めながらもすこし笑ってた ステージを降りたときのあの顔を見たらなんだか本人はすごくいい心境なんだろうなと思えた 心はすごく前を向いてて次を見据えてる そういう顔だった うれしかった

頑張れ!諦めんな!そう叫んだ塚ちゃんにけっこう胸を打たれてしまった 精神論は不確かでウザい だけど最後にはよくわからない愛とか 見えないなにか そういうこころみたいなものが何かを越えさせるちからになる 得体の知れないちから

塚田担みんな泣いて感動してたよ おめでとう ありがとう サスケのプロデューサーもだしいろんなひとが褒めてたよもし次も出るんならすごく楽しみにしています 心から応援する!これからはリアルタイムで見るとか見ないとかではなく心傷を恐れず感動することにした わたしも諦めない!



ちなみにサスケプロデューサーのpostはこれです ツイッターの貼り方がわからなくてごめんなさい
@inuimasato: 塚田君、樽美酒さんの挑戦終わりにスタッフがみんなスゲーってなったコメントを言います。僕が「塚田君て天才やろ」と思った一言です。探してみてください。
@inuimasato: 2nd Stage「皆さん軽々されてますけど、凄い身体能力お持ちだからされてるだけで」です。あのタイミング、言葉選び、天才です