ボクの穴、彼の穴。

あな【穴・孔】
反対側まで突き抜けている空間。「針の―」 深くえぐりとられた所。くぼんだ所。「道に―があく」「耳の―」 金銭の損失。欠損。「帳簿に―があく」 必要な物や人が抜けて空白になった所。「人員に―があく」 不完全な所。欠点。弱点。「下位打線が―だ」「彼の論理は―だらけだ」 他人が気づかない、よい場所や得になる事柄。穴場。 競馬・競輪などで、番狂わせの勝負。配当金が多い。「―をねらう」 世間の裏面。うら。「世間の―を能く知って堺町とは気づいたり」〈根無草・三〉





人を殺します。夏みたいに、戦争。フラッシュバックで頭の中に鳴いた蜩が、わたしがもっとこどもの頃、季節の終わりみたいなきもちでぐちゃぐちゃに丸めてしまいこんでた真っ朱なノスタルジーを丁寧に揺さぶった。眠ったふりをしていたあの痛い感覚。きっとじぶんの知らないうちに、じわじわと侵食されていたのだと思う。帰り道、急に襲われた息苦しさに、駅のホームで座り込んでしまった。皮膚感覚が麻痺して、一滴の血だって見てないのに、赤黒い血が噴き出すのを目にしたときのあの眩み、指先に針を刺す前の掻痒感、貧血のときの息苦しさ、世界が白く静かに遠くなっていくような痺れにつけこまれて、眠れない夜みたいに、胸の奥の奥の奥のほうが疼いた。


渋谷PARCO劇場にて、舞台『ボクの穴、彼の穴。』を観てきました。
わたくしの人格における演劇好きな部分とジャニヲタの部分で観劇したんですがもうこの舞台は完全に演劇として観たので俳優と役の親和性みたいなことについては例によるレベルではあんまり言わないと思います。
この舞台は演劇として最高によかったと思った。圧倒されたとかじゃないんだけど、あんまり言葉が出てこないので感想書こうか迷ったけど書きます。たぶんこれはすんなり身体に入ったからもう何も言えねえ、という感覚なんだろうな…
これはまったくレポートではないし感想ですらないかもしれない。

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公演日程 2016年5月21日 (土) 〜2016年5月28日 (土) 
会場 パルコ劇場
翻案・脚本・演出 ノゾエ征爾




これは戦争のはなしです。
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これは過去の話じゃない。近い、未来の戦争のはなし。未来の戦争、と聞いて、わたしたちは何を想像するか。いまから10秒数えて、爆撃が起きる。そしたら戦争はSFのように行われるか?それはノーだと思う。戦争はむかしのように、渇いた地面に這いつくばって、人が、人を、銃で、爆弾で、土の中、空の上、自分の大事なもの、強さや弱さ、妬みや僻みや最悪なこと、平和や愛を歌ったこと、短い永遠を生きていること、ぜんぶのいろんなことを忘却の彼方に葬って、革命を起こそうとした、っていうか、自分が生きて幸せになりたかったんだよなーと思う。自分の幸せのための手段がもうこれしかないっていう(というかそんなに生きてたいか?)、自分が死んじゃう可能性とか、自分が死んでも別にいい、なんて微塵も考えていないから、わたしとあなたが、僕と彼が、他人であるということ、その幸福を忘れてしまって、テレビのリモコンを手に取るような軽さで、銃を持つ。
ひーとーりーにー、ひとつず、ひとつずつー、たいせつなー、いのちー、いのちー。戦争ってなんだと思いますか?わかりませんか、わたしもわかりません。だけど、それしか正しくないんだと思います。わからない。わからないから考えて、それでもわからない。多くの個人が、こちらとあちらに分かれて、多くの個人を殺して、多くの個人が死ぬ。自分の放った、たった1発の銃弾、それだけで心臓がひとつ止まって、いのちがひとつしかないということにはっとして、知っていたはずの、忘れていたことを鮮やかに思い出して、でも思い出したことも時間が経てばぼんやりとまた忘れる。モラルと現実は必ずしも照合されない。人を殺してはいけません。だけど、えらい人からの指令があったので、撃ちました。
これが戦争です、戦争ですね。恐ろしい夜。暗闇が空っぽの肉体へ入り込んでくる。皮膚、内臓、毛細血管の、先端の先端のそのまた先端まで、侵食されそうになっているところで、朝が来る。嫌になって限界だと思って死にたくなって、だけどどんなに生きる気がなくなったって腹は減るし、滑稽でいやになって、あーあーと思って夜空を見上げたら星が光ってて、きれいだなーと思って、でも星に光る理由はないだろうし、きれいであるという自覚もない、じゃあどうしたらいいんだよ、人間は。めちゃくちゃ生きるのが嫌になって、というか、めんどくさい、だから死にたい、というか、生きるのやめたい、って選択肢が思い浮かんだとして、たったひとつしかないはずのいのちはぜんぜん無くなってくれない。簡単に星にはなれません。なぜならわたしたちはただの人間にすぎないので。どうしても生きていかなきゃならない人間なので。夢とか、希望とか、そういうテレビからもらった概念なんてとうの昔に忘れてしまった。忘れることは残酷でかなしい。忘れて残ったことは甘美といえるものにもなっていき、ほとんどの人間は過去を愛してしまう。でも、きらきらを持ち続けることも、きらきらを失うことも、どちらも正しく、どちらも間違っていると思う。だってさあ、愛がすべてと言えますか。ここでは図太くあるよりも、現実的であることが重要なんだって。

だからというわけでもないが忘れないうちに演者のはなしをします。塚田僚一渡部秀がキャストであることで、演劇を観にきたひとよりは人間を観にきたひとのほうが多かったとは思う。だけど、終演後は演劇を観た感じがしたのではないでしょうか、勿論、人間を観にきてもいいし、というか今回はむしろ人間を観にきたひとのほうがより身を削がれるような思いで痛切に観たんじゃないかと思う。わたしはいちばん後ろの席からハコ全体を眺めていて、切迫して涙を流す女の子たちがたくさんいて、いい舞台だなーと思いました。隣の女の子はときどき声が漏れていて、恋だなって思いました。がんばれ。
2人芝居なのに、舞台上ではどちらも孤独で、2人の兵士は一時も交わらない。顔を合わせるのは想像の中でだけ、それでも彼らは願っている。互いを半ば信頼して、疑うというよりも常に問うている。朝起きて、空に向けて撃つ号砲はハローの手段、それから空腹に耐えて、暇に耐えて、そうしているあいだに夜が来て、気付いて忘れて気付いて忘れて気付いて忘れて気付いて忘れていつまでも終わらない戦争、をしているのかもわからないくらいの膠着状態にいて、ときどき訪れる災厄を恐れつつ、まだ自分に呼吸があることにほっとして、どちらもひとり、穴の中で、ずっとなにかを待っている。
待つことについて、わたしはよく考えるのだけど、村上龍の女はよく待っているし、ベケットはひたすら待つことを演劇にした。生きているわたしたちはよく待つ。待ち合わせの相手を、レストランの注文を、信号を、1分前に起きてしまった鳴らないアラームを、電車を、インターネットの繋がらない回線を、死を、あつい牛乳が冷めるのを、だれかがわたしを探してくれるのを、彼が振り向いてくれるのを。それをひとりで待つ。何もしないで、祈るみたいなきもちで。
待つあいだ、不意になにかが訪れることがあって、それまでは死ぬほどその瞬間を待っていたはずなのに、どうしてか取り逃がす。流れ星みたいに、あ、と思ってるあいだに、通り過ぎる。いつまでも捕まえられないから願いは願いのまま膨れ上がる。そうやって真面目に真摯にきちんと待って辛抱しても、一個人のことなんて誰も見てない、そのくせ、少しでもはみ出ようものなら吊し上げられる。我慢して我慢して、従ってきただけなのに。
「僕はもっと出来る子です」
「誰も気づいてくれないけど」
ほとんどの出来事は待っているあいだに流れてきた偶然のようなもので、強固な意志でも大きな流れは変えられないことのほうが多くて、生きているのが無駄だと思うとか、死にたくなったり、絶望したりするのも、当たり前なのかもしれない。
かといって、ひとりはかなしいことばかりではありません、というのも、この舞台において、塚田僚一の孤独は前向きな孤独で、渡部秀の孤独は不安な孤独であった。ふつうにみんなが抱く孤独は、うつむくようなきもちのものだと思うけど、前向きな孤独というのは、ひとりを選ぶということ。ひとりでいることを選択することです。それは強いとか弱いとかではなく、ただそうある、ということ。ひとりがさみしくないのがかっこいいわけでも、ひとりがさみしいのが恥ずかしいわけでもない。選択肢はただ目の前にあって、正義と悪が紙一重であるように、別にどっちを選んだってそのときはそれで正しい。
舞台の上、塚田僚一の声には諦観と絶望と放棄、渡部秀の声には誠実と希望と呆気が含まれていた。24歳と26歳の青年。家族や友人を愛していて、憎んでいて、戦争が嫌で、戦争に加担して、それでも生きていて、人間だった/人間である、この2人のどちらがまともだったって、わかりますか。どちらが間違っていて、どちらが正しいって、わかりますか。
ぼくと、きみだけで戦争を終わらせよう。たったこれだけ、偏見を取っ払ってまっすぐ考えればわかるし、思い出せるはずなのに、これができないひとがたくさんいるけど、だからこそ、わたしはこの演劇に祈りを乗せたいなと思いました。こういう物語が誰かに気付きを与えるのを待っている。とはいえ、完全な幸福なんかどこ行ってもありえないし、人間みんな整合性なんてつかないはずだから、こういうことを体現できそうな2人が演じていてキャスティング超よかったなと思いました。

それと、ワイドショーかなんかで、製作発表みたいなニュースで、あなたにとって「穴」ってなんですかって訊かれてた。塚ちゃんはめちゃくちゃ淀みなく言ってた。
A.B.C-Zです」
塚ちゃんにとっての「穴」、ぜんぜん定義が違ってビビった。穴は「居場所」だった。例えばみんなに家の中で落ち着く場所を訪ねたときのトイレとか、部屋の隅とか、そういうところ。コントラストがすこし濃いところ。自分の解放区なんだと思う。収まりつつ、無形でいられる。いいなーそういう考え。こういうところで不意を突かれまくるたびにハッとして、もう何億度目か、塚ちゃんはフラットだなーと思う。概念を即解体してまっすぐ考えられる。だから斜め上を行ってるようですごくまともというか、ほんとうの正しさだと思う。いつも形より中身を見ていて、記号内容に常に柔らかく触れている、そういうところがマジで最高だ。

あと、ノゾエ征爾もパンフレットで言及していたけど、ノイズのこと。わたしの思うノイズっていうのは人間の人間的なるもののことで、猥雑で混沌としていてわけのわからない整理のつかない複雑な理屈の通らない切り分けられないもののこと。例えば肉体。例えば思考。例えば都市、人間、演劇。それらの生むダイナミズム。思考はコントロールできても、脳や肉体はバカほどにまっすぐで、好きとか嫌いとか、本能に根を張ってるものはどうしようもない。身体がなくても戦争ってできるかな。
「現代」ニッポンで「生きる」僕らの「身体」から生まれるもの。丈夫な身体を持って、声を出す。おなかが空いたな、そう呟いて、ひとりで穴の中にいる。終末のPARCO劇場の舞台の上の、あの暗くて狭い戦場にいたのは、まだ柔らかいこどもだったと思う。こどもがこどもを殺して、それでも彼らは愛を知っている。

上空から穴の中へ放り込まれた赤い戦争マニュアルとともにわたしたちは墜落する。渋谷っていう落ち窪んだでかい穴の中に建つビルの9階で、死んでしまう柔らかい身体を持ったわたしたちが、互いのことをなにも知らないまま、ノイズのことを考えたり、考えなかったりする。隣の席で、双眼鏡で穴の中を覗く彼女はたぶん、自分が見ているものがアイドルという記号にまみれていて、自分が何も知らないということも忘れている。ただ高ぶりだけがそこにはあり、だけど、その隣で冷静に狂っているわたしも、脈絡がない。あー、どうしようかなーと思う。みんな人間で、生きていて、ときどきおなじごはんを食べたり、おなじ光景を見たりして。みんないろんなことを誤魔化しながらがんばって生活してる人間なのに、いつか銃を持って戦場で会ったりするのかな。死んだ青くて赤い顔を見たりするのかな。生まれる前に死ぬ。死んだあとも死ぬ。死ぬのはいいけど、みんなかわいい。歯を食いしばって現実を生きていて、ときどき笑ったり、泣いたりするから、かわいいと思う。
「いままできみは何に耐えた?」
自問自答の合間に、There is nothing.を思い、見えないものを見ようとする。穴の中には空洞があった。どこまでも狭くて暗い、空洞。戦争っていう記号に覆い隠されてがらんどうになってしまった、人間、という温度。忘れられたかわいい個人。
「指令を下さい」
砂漠の底で、わたしたちは待っている。ただひたすら、助けを、時間を、誰かを、生を、死を、ここに停泊している最悪な日常を、終わらせてくれるなにかを、待っている。

劇場を出ると外は突き抜けるような青空で、暑く湿った空気に、人の匂いが混じっている。渋谷の坂の重力に従って逆位相音で相殺されるノイズの波と波、そうして加速する真空地帯では人が出会えない。あらゆる看板、人の会話、流れる音楽、それらの飽和して溢れた意味を丁寧に選び取って磁場に呑まれたわたしたちは、互いにとって、ひとつの現象にすぎない。残酷なシーン。それでもわたしたちはこの演劇を観て、またこういう痛切なきもちが訪れるのを待つことになる。明日、戦争が起きるかもしれない。自分の目の前で知らない人が死んだり、愛する人が死んだのを知らないまま戦争が続いたりするかもしれない。当然のように存在する悪意をどうするか。互いにやめたい戦争と、互いにやめられない戦争に、どういう感情を織り込むか。
待つあいだに考えることはいくらでもできる。それなのに、いつまでたっても雨が嫌い。雨なんて待てば止むのに、まとわりつく嫌悪に、抗う術がない。だから、どうか、と願いつつ、動く。すべてのひとのすべてのことが、うまくいくといい。